mikadiri2003-11-23

小説を書いているときは、あまり小説を読まないようにしています。良い作品に出会ってしまうと単純な僕はすぐに影響されてしまいますし、悪い作品に出会うとその作者を捕まえて小一時間問い詰めたくなるからです。「大衆小説」と一般に呼ばれているものを読むと、本当にイライラする(もちろん良い作品も中にはありますが)。僕は小説に構成的妙とかエンターテイメント性とか全く求めていなくて、示唆的な出来事と優れた文章表現さえあればいい、と考えるほどの文学至上主義男ですから(そしてこういう奴は敬遠される)。まあ何が言いたいのかというと、趣味でちょこちょこと書いているときなら別にいいんですが、今は卒論代わりに小説を書いているわけで、あまり執筆に影響が出るような下手なことはできないわけですよ。
そして僕は下手なことをやってしまったのですよ。梶井基次郎の『檸檬』を何故か本棚から引っ張り出して再読してしまい、懲りずに感銘を受けてしまいました。何回も読んでるのに、なぜまたこんな大事な時期に! もう頭の中のイメージはすっかり檸檬で覆い尽くされ、僕の小説はどこかへ飛んで言ってしまったようです。ああ、馬鹿野郎梶井。
檸檬』という小説は短編というより掌編といったほうがいいくらい短い作品で、ストーリ自体は他愛の無いもの。八百屋で買った綺麗な檸檬をデパートの本屋で積み上げた美術関係の本の塔の上に置いてくる、とまあこれだけ。いや、こう書くと意味不明だな。しかし僕はこういった話が極限に好きなんです。「何が言いたいんだろうな、まあなんとなくわかるけどさ」みたいな話がね。そういう曖昧な姿勢で読んでるんで、学術的な文学研究とかは苦手なんですが。

見渡すと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。

冴えかえっていた! カッコイイ言葉ですなあ。少なくとも僕の語彙には無いです。パクりてえ(駄目)。