文章に意識的であれ

リアル友人S氏が運営する日記サイトで、柄谷行人の『畏怖する人間』からの一部が引用されていました。それを読んで僕は「ううむ。」と唸ってしまったのですよ。ちょっと長いですが以下に孫引用します。文中の「高橋氏」というのは小説家の高橋和巳さんのことです(僕が感じ入った部分と高橋氏はあまり関係ありません。S氏すまん)。

処女作『捨子物語』では(近作『日本の悪霊』においてもそうだが)、絶望、荒廃、悲惨、怨念というようなことばがなまのまま露出されており、それらのことばの連鎖が与える印象はきわめて空疎である。虐殺とか爆死とかいったことばが氾濫ししかもどんなリアリティも伝えていない新聞のプロレス記事まがいのものでしかない。たとえば、「アルキポンディの『秋の顔』のように」という表現は、その絵を見たことのない読者にはどんなイメージをも喚起しないし、ただ作者の資質がブッキッシュなもので、ものそのものを少しも見たことがないことを露わに示しているだけだ。これは高橋氏の小説の致命的欠陥であって、僕はそれを「文学」と呼ぶか否かにおいてすら躊躇を感じる。

ううむ。僕自身「アルキポンディの『秋の顔』のように」的な表現を好んで使ってしまうので、色々考えさせられます。「ものそのものを少しも見たことがないことを露に示しているだけだ。」痛烈ですねえ。反論が出来ませんよ。まさにそのとおりだと自分でも思ってしまいますし。さすが柄谷、痛いところをついてくる。

前半部の「絶望、荒廃、悲惨、怨念というようなことばがなまのまま露出されており、それらのことばの連鎖が与える印象はきわめて空疎である。」という一節、ここに僕は激しく同意します。Web上の創作じみた文章を読んでいると、こういう言葉が使われているのをよく見かけます。乱発といってもいいですね。もう読者にはそれだけで筆者の質がわかってしまうのですよ。
「絶望」という言葉なら、それを別の表現で文章化するのが創作の目的ではないのか、と思うのです。もちろん文章の流れで必然性があるのならそういった言葉を使うのは構わないと思います。しかしその場合、筆者は必ず意識的でなければならない。無自覚に抽象的な言葉を垂れ流すのは幼稚といわざるをえません。

文章の隅々にまで己のアンテナを張り巡らせること。それが文章創作の第一歩だと思うのです。「絶望」に限らず、擬音でも形容詞でも語尾でも、なんでも同じです。「小説」と銘打たれた文章では、「美しい花に私は感動した」なんてセンテンスなんてあってはいけないのです(例文が酷くてすいません)。その「感動」を描くのが小説なのですから。


僕は文章に対して意識的でありたいと思うし、実践しているつもりです。あくまで「つもり」であって本当に実行できているかは疑問ですけれど。長くなってしまいましたが、ここ最近プロの小説を読んでいても、じつに腹のたつ文章が目につくので、自分の考えを書いてみました。