駄目だあ。梶井基次郎駄目だあ。読むと染められてしまう。僕の中にどんどん梶井イズムが流れ込んできてしまう。彼の文章って、なんというか、身体の奥底からにじみ出るものではなく、一杯のコーヒーを相手に差し出すようなさりげない文体なんですよ。それが実に、実にカッコイイ。もう大体卒論は書き終えているのでそちらに影響は出ないんですが、サイトの更新が……。ただでさえ読みにくいものが、下手に梶井基次郎リスペクトなんかしたらさらに間の抜けたものになってしまいますよ。いやホント最近本サイトの存在意義を見出せなくなってます。必要ないじゃん、アレ。
話がそれた。とにかく梶井先生は素晴らしい。大御所の作品を読むと必ず舞い上がってしまう僕の言い分に説得力はないような気がしますが(この前は谷崎で独り盛り上がっていたような)、何はともあれ梶井基次郎は良いものですよ。一つ一つの作品が滅茶苦茶短いので「ブンガクはちょっと……」っていう椎名誠的スタンスな人にもオススメ。日本人なら、やはりこの時代(明治後期〜大正、昭和初期)の文学はマストですよ。マストっていう言葉、初めて使った。

 ササササと日が翳る。風景の顔色が見る見る変わってゆく。
 遠く海岸に沿って斜に入り込んだ入江が見えた。――峻はこの城跡へ登る度、幾度となくその入江を見るのが癖になっていた。
 海岸にしては大きい立ち木が所どころ繁っている。その蔭にちょっぴり人家の屋根が覗いている。そして入江には舟が舫っている気持。
 それはただそれだけの眺めであった。何処を取り立てて特別心を惹くようなところはなかった。それでいて変に心が惹かれた。
 なにかある。本当に何かがそこにある。といってその気持を口に出せば、もう空ぞらしいものになってしまう。

城のある町にて』より。真っ白なコピー用紙にスッとペーパーナイフの切っ先を入れたような静かな文章。カ・カッコイイ。本を見ながらキーボード打ってて思ったんですが、僕と彼では底にある文体が違うようで(比べるのも本当に失礼なくらいレベルが違いますが)、「こんな言葉を選ぶのか」「助詞をこう使うか」「ここで改行か」などといろいろ発見があります(一つ例をあげれば、最後の一文、「なに」という言葉をひらがなと漢字で使い分けているところ。絶妙だ)。僕の小説の恩師が「過去の名作を自分で原稿用紙にうつしてみなさい、そうすれば作家たちの息遣いがわかる」と常日頃から言うのですが、確かにそのとおりですよ。模写というのは小説創作に関してもかなり重要です。