雨にうたえば

 

 激しくアスファルトを打つ雨の音に目を覚まし、ふわああ、とあくびをしたところ顎が外れたので僕はとてもうろたえた。これはいけない、と呟きつつ(実際は「ほげがひげがい」と発音された)、急いでバスルームの鏡で自分の顔面状態を確認しようとベッドから降りようとして、部屋が水浸しになっていることに気づき、さらにうろたえる。なんだなんだこれ、と毒づきつつ(実際は「はんがはんがほげ」)僕はベッドの上に立ち尽くした。まるでプールだ。床から30センチほどの高さまで、部屋中が水で満たされている。水は僕が眠っていたベッドの上までは届いておらず、そのおかげで僕は眠ったまま溺死せずにすんでいたわけだけど、テーブルや座椅子なんかは完全に水没していて、テレビやコンポや炊飯器やスタンドにたてかけておいたギターなんかは上半分だけ水面から顔を出している状態だ。えらいこっちゃ、と僕は思った。どうしたらいいのか。顎に手をあてて考えてみようとしたが、今の僕は顎が外れているわけで、つまり顎に手をあてたりなんかしたら激痛のあまり失神してしまうことうけあいなわけで、考えることすらできない。

 とりあえずは今出来ることをするしかないだろう。僕はベッドの上に立ちながら、いわゆるひとつの朝立ちをする息子をさすった。トランクスからハミ出そうになるほど身を屹立させた息子は、ふるふると震えた。思いのほか快感だったので、僕は「あふう」と喘ぎ(実際は「はぐふ」)、そのまま崩れ落ち、ベッドの下に落ち、つまり水の中へイントゥし、溺れた。僕は泳げないのだ。顎が外れたままの口内へ容赦なく水が入り込んでくる。昨日床に脱ぎ捨てておいたままだった靴下なんかも入り込んでくる。よくわからないが和英辞書らしき分厚い書物も入り込んでくる。


「助けて!」


 僕は叫んだ。しかし顎が外れているうえ口の中にいろいろ入っていてしかも水中にいるので実際にはよくわからないうめき声をあげただけであった。こんなところで僕は死ぬのか、と思う。深さ30センチの水たまりに落ちたくらいで大げさな、とあなた方は笑うかもしれない。しかしそれは水の恐ろしさを知らない半魚人の言い草だ。僕は半魚人じゃなく人間なのだ。毎日、湯船につかるたび、生と死の境をさまようほどの、由緒正しき陸上生活人間なのだ。水中では正常な判断ができるはずがない。前も後ろも上も下もわからない。こっちが下だ、ここが床なんだ、そう思って足をつこうとしても、ずぼあ、と水上へ蹴りを繰り出してしまう。シンクロナイズド的にはそれでいいのだろうが、今はシンクロってる場合じゃない。

 駄目だ。顎が外れている今の僕には助けなんて呼べないし、方向感覚だって狂っているし、無駄にシンクロナイズドしてしまうし、もうどうしようもない。絶望的だ。だいたい人に助けを呼ぶ時点で間違っているような気がしないでもない。僕の部屋で起こった惨事は僕自身で解決すべきだろう? もし自分が隣の住人だったら、助けに行くか? 行くわけがない。そんなの無視して朝立ちした息子をさすり、痙攣しているはずだ。ああ、僕は本当にこのまま死んでしまうのか。誰にも知られず、誰にも看取られず、靴下と和英辞書を咥えて、一人、寂しく、魚のえさになってしまうのか。嫌だ。そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。死んで、死んで、死んでたまるか!


「レッツゴーーーーーーーーーーーーーーー!」


 僕は無意味に前向きな言葉を叫んだ。レッツゴー、だなんて、この状況でどこにレッツゴーするのか、自分でもよくわからなかったけれども、無性に叫びたい気分だったのだ。当然というべきか、僕の声は水にかき消されてしまった。しかし僕はもう絶望してうつむいたりはしない。生きるのだ。僕の口から発生した大量の泡が、ある方向へと一斉に向かっていくのが見える。「あそこだ!」目を、これでもかというくらいに見開く。「あそこに、行くんだ!」

 僕は渾身の力を振り絞って身を起こそうとした。上下左右、これで間違いない、そう信じて、足を踏ん張る。するとわりとあっけなく僕は立ち上がれた。久方ぶりの酸素を吸い込みながら、いまだ助かったことが信じられずに立ち尽くす。ふと、笑いがこみ上げてきた。こんな簡単なことだったのか、生きるか死ぬかなんてことはこんなに簡単に自分で決められることなのか、と。窓の外の雨はもうやんでいた。もう少しすれば床上浸水も引いていくだろうし、雲の隙間から晴れ間も見えてくるだろう。笑いながら僕は股間をさすった。また快感に打ち震えるあまりぶっ倒れて溺れてしまうかもしれない。しかし今の僕にとって、少しも恐ろしいことではなかった。


MOON GOLD
「雨にうたえば」 from 『MOON GOLD』
the pillows' 3rd album.