サリンジャーの『フラニーとゾーイー』を今さら読み返したりなどして、フリーズのショックを紛らわせているのであります。野崎孝さんの訳は良いですね。二十世紀初頭のインチキなアメリカくささがよく現れてますよ。いや、いい意味で。背伸びしたいけど背伸びしたくない若者具合というのか、まあなんていうかそういう微妙な雰囲気が、文字と文字のあいだに漂ってます。

それから両手を目の上に縦にあてると、掌の下のところで強く押した。視神経を麻痺させて映像という映像を一切、茫漠とした暗黒の世界に消し去ってしまおうというのかもしれない。のばした指は、小刻みに震えていたけれど、というより震えていたからと言うべきだろう、妙に繊細で美しく見えた。

フラニーとゾーイー』収録の「フラニー」より。フラニーがトイレで泣くシーン。なんか、好きです。例によって理由を説明することができないんですけれども。そういえば、僕が居間でこの本を読んでいると、母がそれを見とめて「あんたサリンジャーなんか読んでるの?」とかほざきだしまして、「なんかとはなんだよ。大文豪じゃないか」と返答したら、「サリンジャーの小説は何を言ってるのかさっぱりわからないから嫌い」とぶった切られました。先ほどの話です。ぐうの音も出ませんでしたよ。まあ一応一回は読んでいるらしいですから、読後の感想は人それぞれだろうと思いまして、反論はしなかったんですけど、放っておいたら「しかもサリンジャー自身も変な人よね、引きこもっちゃってるんでしょ? 気持ち悪い。そんな人が書く小説なんだから」とまで調子に乗りやがりまして、「作家と作品は分けて考えないと駄目だよ」と優しく諭してみました(おそらく効果なし)。一般人の文学に対する認識ってこんなもんなんですかね。少し悲しい。谷崎とか読ませたら、「ヒイイ変態」とか言い出しちゃうのかしら。ハァ。
サリンジャー、意味のわからなさも含めて僕は好きですけどね。というか「意味のわからなさ」こそ文学の芸術たる由縁じゃないですか。というのは明らかに言いすぎですね。