母は一人で三千里

ちょいとばかし昼寝して、ふと目が覚めてみたら携帯電話が震えているのを発見(僕は携帯を携帯しない人種なので、着信を発見するのは珍しいことです)、出ようと思ったら震えが止まり、畜生、どこの誰だ僕の惰眠を邪魔しやがったのは、と発信元を見てみると、「公衆電話」。さかのぼってみるとじつに16件もの公衆電話からの着信があり、いたずら電話きちゃった、ボク狙われちゃった、と少し震えていると、また携帯が震える。公衆電話からだったら出るまい、と思い画面を見ると、「父」の表示。休日とはいえ出張中の父から電話があるのはとても珍しいので、これは何かあったに違いない。通話、第一声、笑い声。
「おまえどこにいんだよ。ガハハハハ」
意味がわからない。「なにがあったんですかいったい」と他人行儀な口調で問いかけると、「いや、何ってそれはおまえ、ドブハハハハ」。意味がわからない。黙る僕。「オレ今長崎にいるんだけど、もう、ドハハハハハ」。長崎は今日も雨なんだろうか、そんなことを考えていると、ようやく父が用件を話し始めた。「おまえにババさん(註・父は母をこう呼ぶ)から電話なかった?」
「いや、別に。公衆電話からしか」
「それババさんだよ! ガハハハハハ、あいつ、実家に鍵忘れて家に入れないんだってさ! 実家っつってもあれだぞ、大分だぞ大分。大分に鍵を忘れたおばさんが今埼玉で泣いてるんだってよ! ブハハハ!」
「え、じゃあこの16件の着信は」
「だからそれババさんだって! 16? ギャハハハハハ! なんか涙声でオレの携帯に電話かかってきたんだけどさ、『家に入れないの』とか言って、でもオレ長崎じゃん? どうしようもねえ! ギャハハハハハ!」


えー、以下に、鍵を開けに行った僕が、玄関の前で母に怒鳴られたその内容の一部を、思い出せる限り書き記しておきます。リアリティを求める方は、「しずちゃんのバイオリン並」の音量で「犬笛一歩手前の超音波的」高音を50代のおばさんがほぼ息継ぎなしで発している、とご想像ください。


「アンタアタシが何回も電話かけてんのになんで出ないの! 馬鹿にしてんの! 馬鹿にしてんでしょ! あ? 公衆電話? 知らないわよそんなの! 公衆電話だからってアタシが電話してんのくらい携帯電話の画面みればわかんでしょ! アタシの気持ちがアンタにわかる? わかるわけない! 大分空港で鍵を失くしたのに気づいて電話して羽田に着いたら電話して埼玉着いたら電話してなんでアンタ出ないのォー! しょうがないからスッパ(註・スパゲッティーのこと)食べたわよ、食べてまた電話したわよ、なんで出ないの! アンタ誰のおかげで――あ、どうもこんにちは〜(註・隣人が通りかかった)――父さんの葬式で集まった親戚に聞かれたわよ、『アイツどうしてるんだ?』って、アタシ答えられないじゃないの、どうしてくれるのよ、なんで電話に出ないのよぉ!」