プラネテス Phase22「暴露」

これほどの作品を、何話か「見逃してしまっている」という事実が、少しだけ僕を憂鬱にさせる。見逃した分はDVDを買えば見れるし、取り返しがつかないことでもないのだけれど、今現時点で僕は序盤(7話くらいまで)を綺麗さっぱり見逃しているわけで、つまりその下積みがない状態で、「今回の話は最高だ」とどれだけ書きなぐったとしても、読者様たちにその「最高さ」が伝わるはずがないのだ。それはちょうど、ドラゴンクエストの「1」「2」を遊ばずに「3」だけをクリアして、「ドラクエ3最高!」とのたまうのと同じように。伝わるわけがない。空虚だ。僕の発する言葉は薄っぺらい。僕は、『プラネテス』というアニメーションの素晴らしさを、あなたがたに届けることができない。それはとても悲しいことだ。
「暴露」と題された第22話。決して明るい話ではない。むしろ暗い。視聴者は井伏鱒二の『山椒魚』を想起する。どこを見渡しても暗闇。居心地が悪い。いつしか自分は“山椒魚”ではなく、“黒”という、無機物を通り越したところにある、ただの“文字”なのではないかとすら錯覚する。出口はある。あるにはあるが、それは小さすぎて出口とは呼べないような代物だ。しかし、確かに、存在する。光は、確かに差し込んでいる。断絶されているわけではない。光は控えめながら周囲を照らし出し、自分が“黒”ではなく“山椒魚”であること――つまり自分は生きているということを、認識させてくれるのだ。
プラネテス』は人間のドラマだ。それは今さら言うべきことではないかもしれない。でも敢えて、今だからこそ、もう一度書き記しておきたくなる。僕はこのドラマを鑑賞することで、どうしようもなく「生きている」ことを実感する。たかだかアニメで何を大げさな、と笑われるかもしれない。別に構わない。「笑われること」も「生きていること」と同義なのだ。先ほど煙草を買いにサンダルをつっかけて煙草屋へ向かおうとし、凍りついた地面に足を滑らせ、素晴らしく転倒したのも、「生きていること」の一環だ。僕は物語を創作する際に、「繋がり」という言葉・概念を無意識的に重視しているけれども(自分で書いたものを読み直した結果、浮かび上がってくるのだ)、その無意識的自覚は正しい、と思う。繋がっているのだ。「生きている」ことは「繋がっている」ことなのだ。人と人はもちろん、一瞬と一瞬、空間と空間、全ては繋がっている。『プラネテス』の主人公ハチマキは第22話の時点で、その「繋がり」の暖かさ、巨大さに圧倒され、困惑している。必要なものだとわかっているのに、「繋がり」はあまりに遠く、そして身近すぎるため、彼はその存在を掴むことができず、一時的に“漂流”してしまっている。「繋がり」の具現化を求めるがゆえに、「木星往還船フォン・ブラウン号」にすがっている状態だ。別に僕はそれが間違っているとは思わない。それはそれで、一つの「繋がる方法」だ。しかし彼の間違いは、「自分が今、誰とも繋がっていない」と考えているところにある。それは、本当に、大きな間違いだ。繋がってないものなんて無いのだ。
いつしかハチマキは、「繋がり」の存在に気づくだろう。そしてそのとき、『プラネテス』という物語はクライマックスを迎えるだろう。僕はいち視聴者として、その瞬間を待っている。

「ですから ただ僕は ……道標が欲しいんです 北極星のような明確で疑いようのない…… 自分の位置を知り まっすぐ進んでいることを確認できるようなものを 求めているだけなんです」
「ふむ お若い方 あなたの今いるここがどこか ご存知ですかな?」
「え? ……ネイティブアメリカン自治区…… アメリカ合衆国? ちがう? 北米大陸? 西洋? 地球……?」
「ふむ そうでもあるがね ここも 宇宙だよ」*1

*1:講談社プラネテス』第一巻「ロケットのある風景」より抜粋