ハート・イズ・ゼア


 この世に生を受けてから十数年、ナンパというのをしたこともされたこともない。もちろん、ナンパがどういう行為であるか、そのくらいは知っている。上半身を心もち左側に傾けつつ右手を定年間近のクレーン車のような角度で差し出しながら「ヘイヘーイ彼女、お茶でもしな~い?」と言えばよいのだろう? しかし、である。方法は知っていても、意味がわからない。“お茶でもしな~い?”とは、いったい何だ? お茶を、する? お茶は飲むものではないのか? 僕は毎日、食後にお茶を飲んでいる。緑茶だったり紅茶だったり麦茶だったり玄米茶だったり、種類は様々であるが、とにかく飲んでいる。飲料なのだから、飲むのが当たり前だ。しかし、ナンパをするにあたって、お茶を飲むのではなく、しなければいけないのだ。戸惑う。どのように、“する”のだ? 


「誰か、お茶のしかたをご存知の方、いませんか。いたら連絡ください」


 そのようなメッセージを書いたビラを数十枚手書きで作成し、近所の電信柱に貼り付けて回った。知っている人がいれば、連絡がくるはずだ。ただ、これだけでは不安だ。そこで、専門家であったらおそらく知っているだろう、と思い、母が通っている茶道の先生の家には、電信柱だけでなく、玄関全てを覆うようにくまなくビラを貼った。風で飛ばされないようにアロンアルファで貼った。抜け目なく壁にも貼った。インターホンにも貼った。看板にも貼った。「誰か、お茶のしかたをご存知の方、いませんか。いたら連絡ください茶道教室」になった。飼い犬の顔面にも貼った。吠えられた。びびった。走った。逃げた。


「パーク。」


 息もきれぎれに呟く。僕はまた、あの公園にたどり着いてしまった。数多くのカップルが「デート」を楽しむ、いわゆる「デート・スポット」略して「D・スポット」。ついこのあいだまで僕はデートというものを全く経験したことがなかったが、色々あって、ここでデートをすることができた。貸しボートを池に浮かべ、おじいさんと二人で乗ったのだ。あれは素晴らしいデートだった。楽しい時間はあっという間に過ぎるというが、まさにそのとおりで、ちょっとはしゃぎすぎて池に転落したおじいさんを救い出そうと四苦八苦してたらいつのまにか鈴虫の鳴き声が聴こえてきたのだった。ふ、と口元が緩む。あのときのおじいさんったら、錦鯉を吐き出しながら「てへっ、死にかけちゃった」だなんて。

 しかし、と呟く。思い出に縛られているわけにもいかない。僕はデートを知った。そこで満足してはいけないのだ。前に進むべきなのだ。ナンパを知らねばならない。そのためにお茶をできなければいけない。いつまでもおじいさんに頼るわけにはいかないだろう。自分ひとりの力で、道を切り開いていかなければならないのだ。

 まず僕は、あずまやのそばにあった自動販売機でお茶を買った。自力で、お茶を、するのだ。250ミリリットル入りの缶。なぜコーヒーは缶コーヒーと呼ぶのに、缶茶という日本語がないのだろう、そんな疑問が頭をよぎるが、今はお茶をすることに集中する。茶の缶を眺める。どうやら新茶らしい。しかしナンパは年中行われているのだから、新茶か否かは関係ないだろう。続けて眺める。「お茶俳句大賞受賞作」なるものが印刷されている。「服を脱げ 心はいつも そこにある」。とある県の婦警さんの作らしい。「女性には珍しい、はちきれそうなパワーを感じます」などと、撰者の評が載っている。確かに色々なものがはちきれそうになる力をもつ一句だ。しかし、茶になんの関係がある?

 結局自分では何一つわからないまま、時間が過ぎていく。僕はあずまやのベンチに腰かけて、未開封の茶缶を見つめながら、途方に暮れていた。何組かのカップルがきゃあきゃあウヘウヘ言いながら通り過ぎていく。こうしていても仕方がない、お茶を飲んで家に帰ろうと思い缶のタブをおこしたそのとき、一組のカップルが、自動販売機を目に止めた。「なあ、ここでお茶しない?」と男が言った。はっ、と僕は身構えた。ついにお茶をする様子が見れるのか。そして次の瞬間驚く。思わず顎を外してしまうくらい驚く。男が、缶コーヒーを買ったからだ。お茶をすると言ったのにコーヒー。なんでや、とか、お前ちゃうやんけ、とか、お茶せいやお茶、とか、そんな突っ込みよりも、僕の身体、足のつま先からまつ毛の先まで、シピピピピと電流が走った。僕は震えた。震えたので茶がこぼれた。シャツが濡れた。濡れたので脱いだ。カップルの女性のほうがヒャッと言った。男のほうがホッと言った。僕はヒャッホーと叫んだ。

 僕は馬鹿だったのだ。これ以上なく無知だったのだ。物事を表面的にしか捉えていなかったのだ。走る。缶を持ったまま走る。中身が四散する。ズボンが濡れる。わかっている、わかっているんだ。お茶をするとかナンパとか、どうでも良かった。理由が欲しかっただけなのだ。服を脱げ、心はいつも、そこにある。そうだ。最初から僕は、あの人に会いたかっただけだったのだ。


「びしょ濡れじゃないか」


 ボート乗り場の受付で釣り雑誌を読んでいたおじいさんは、上半身裸、下半身お茶浸しの僕を見て、びっくりしたように言った。僕は乱れた息を整える。やることはひとつだ。もう迷いはない。知ってるとか知らないとか関係ない、行動しなければ何も始まらないのだ。


「ヘイヘーイ彼女、お茶でもしな~い?」


 上半身を心もち左側に傾けつつ右手を定年間近のクレーン車のような角度で差し出しながら僕は言った。おじいさんは雑誌を閉じ、ふふ、と笑って、「コーヒーならあるわよ」と言った。


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「HEART IS THERE」from 『Non Fiction』
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