バック・シート・ドッグ


 何度チラ見てもバックミラーには後部座席に座っている犬。「おはようございます」「おはようございます」「奥様のワンちゃん、可愛らしくいらっしゃってホホホホ」「いえいえ奥様のワンちゃんこそ賢そうな顔面でオホホホホ」などと井戸端会議で話のタネになるようなたぐいの犬ではない。かといって「あっ、ポチっ、そっちにいっちゃだめ、トラックがっ」「あぶないーッ!」「あーっスーツを着たカッコイイビジネスメン風の男の人が颯爽と現れてポチを助けてくださったァー!」「危ないところでしたね」「ありがとうございます、あの、お名前を」「名乗るほどの者ではありませんよ」「アラ素敵」などと恋の予感溢れるワンシーンの小道具として使われるたぐいの犬でもない。むしろそのワンシーンの主役であるスーツを着たカッコイイビジネスメン風の男の人である。でも男の人じゃなくて犬。スーツは着てないがカッコイイビジネスメン風の犬。颯爽と犬。錯綜する僕。


「あああの」と僕。

「なにか」は犬。

「いいいえ、なんでも」

「そうですか」


 そもそも悪いのは僕の友達で、ドライブに行こうと言い出したのは彼なのだ。男二人でドライブなんてやだよそんなシダ植物的行楽、と僕は主張したのだけど認められず予定は立てられ、集合時間が朝五時ということにこれまた僕は反対したのに認められず日程も決まり、いざドライブ・デイ、となったら友人来れない。朝五時に電話で知らされた僕は当然激高、激高しているのだからもちろん激しく甲高い声で友人に抗議した。しかしどうしても外せない用事がどうとかこうとか、代わりに俺の友達を行かすからさ、二人で楽しんでよ、ちょっと待て僕の知ってる人なのかそれおい、いや人じゃない犬。


「失礼ですが――」で犬。

「なななにか」と僕。

「煙草を吸っても――構いませんかな?」

「ええええ、どうぞ、どうぞ、構いません」


 構う。僕は煙草が嫌いである。僕の車も煙草が嫌いである。僕の車の後部座席も煙草が嫌いである。しかし断れない。断れません。僕は犬が苦手なのだ。写真を眺めたり映像を鑑賞したりするのは好きで、むしろ犬イズヴェリー可愛いと思うのだけれど、本物を差し出されるとおののく。おののいて震える。しばらく震えているとおののくのレベルがあがっておのののき始める。なおも震えているとおののののののののあたりで気を失ってしまう。いま、犬は後部座席に座っているので、それほどおののかない。最初、犬は助手席に乗り込もうとし、助手席に座られたら運転中におのののののいてしまう恐れがあるので僕は焦って「いえいえ後部座席が広々としておくつろぎ感満点」とプレゼンテイション、なんとか後部座席に落ち着いていただいた。煙草も吸うとなれば、ますます助手席はありえない。好判断、と僕は思う。グッド判断、と半端に英訳する。


「そういえば――」

「はははい何でしょう」

「今日の、目的地を――聞いてませんでしたな」


 フゥーと吐き出す犬。ウェーとおののく僕。


「えええっとジョン鈴木さんは」

「ジョン、で――かまいません」

ジョジョジョンさんはどこか行きたいところとかありますか」


 カッと目を見開く犬。キャッとおののののく僕。


「どこに行くか――決まってない、と?」

「すすすいません」

「ワン!」

「ひっ!」


 びっくりして急ブレーキ、前のめりになった犬が前のめりすぎてシフトレバーに置いている僕の左手の甲の上に顎をお載せになった。「ちょちょちょっ」ハンドルから離した右手を、漫画のキャラクターみたいな大げさっぷりで「の」の字を描くように僕は回した。小指がドアのどこかにぶつかって不自然な音を立てた。「ハムラビホーテン!」と僕は叫び声をあげたが、左手は動かさなかった。動かせなかった。動かしたら殺ラれル、と片言で思った。一方御犬はというと、御顎を僕の左手にお載せになったまま、そして煙草を御口におくわえになったまま、悠然としている。将棋の対局中、長考する相手を眺めるスフィンクスのように、視線は揺るがない。


「信号――」

「ははははい?」

「信号――赤でしたよ」


 散歩をさせているいぬに引きずられてお爺さんが横断歩道を渡っていた。危ない。もう少しでお爺さんをあの世へいざなってしまうところだった。さっきの「ワン!」は、赤信号を知らせるためのものだったのか。僕は犬を見た。犬はまだ顎を載せている。お爺さんが横断歩道を引きずられきり、しばらくして、信号が青に変わった。僕はレバーを動かした。犬は表情をだらしなく崩して「わおうんヌ」と甘い声を出した。そしてすぐまたスフィンクス的。アクセルを踏む。車体が揺れる。わおうんヌ。スフィンクス。意味もなく左手の指をわきわきさせてみる。わおうんヌ。スフィンクス。わきわきわおうんヌフィンクス。わきわきわおうんヌフィンクス。わきわきわお煙草が落ちる。


「あ、や、これは――失礼」


 犬は名残惜しげに顎をあげ、煙草を拾い、備え付けの灰皿に捨てた。そして後部座席に颯爽と戻った。バックミラーをチラ見るとやはりスーツを着てないビジメスメン風の犬。でもさっきまでとは少しだけ違う犬。なんだかんだで犬。なんだかんだで僕。なんだかんだで犬と僕。


HAPPY BIVOUAC
「Back seat dog」from 『HAPPY BIVOUAC』
the pillows' 10th album.