ペーパームーンにこしかけて

 

 びゅうと風が、暖かさの残る空気をひとまとめにしてどこかへ連れ去ってしまい、こうして夜がやってくる。僕は首をあげ、空を見た。星が弱くまたたいている。オリオン座はいつでもオリオン座だ。僕はオリオン座を見ると反射的に数学の図形問題を連想する。だから僕にとってオリオン座はオリオン座というよりも数学の図形問題座なのだけれど、そのことを人に話しても理解は得られない。「バッカかおめえ、ありゃ数学の図形問題座なんかじゃねえ、右肩をクイっとあげてキメのポーズをとってる80年代後半のダンサー座だ」と言われたこともある。そう断言されると、ダンサー座に見えなくもない。結局星座なんて、見る人によってがらりと変わってくる種の座なのだ。星の配置は固定されているのに、脆い。


 だから僕がこうしてマンションの廊下で正座させられていたって、まあ一般的には「悪さをして親に怒られ家に入れてもらえないどころか廊下で正座させられている男の子」に見えなくもないだろうけど、そんなのはあくまで“一般的”なものの捉え方だ。夜空を彩る無数の星たちだって、オリオンだったり図形だったりダンサーだったりする。僕が「悪さをして親に怒られ家に入れてもらえないどころか廊下で正座させられている男の子」であると、この世の誰が言い切れる? 言い切れまい。そもそも僕はもう二十歳だ。男の子なんて呼ぶべき代物じゃない。男の人だ。男子じゃない。男人だ。ダンジンだ。


「あら、こんなところで正座して。どうしたの? 悪さしてママに怒られたの?」

「こんにちはお隣の加藤さん」


 買い物帰りの加藤さんは、にっこちと笑って(唇の端っこが切れて血が滲んでいるので、“にっこり”とはとても形容できない)、「こんばんは、よ」と言った。そうだった。夜なのだ。


「空を見てるんです」と僕は言った。

「空?」加藤さんは唇の端っこを舌でなめながら後ろを向いて空を見た。

「星が見えるんです」

「今日はたくさん見えるわね」


 加藤さんはそう言って、しばらくそのまま星を眺めていた。さらりと髪が揺れた。スーパーのビニール袋がかしゃりと音をたてた。お隣さんとはいっても、彼女がどういう人間なのかは知らない。20代といわれればそんな気もするし、40代といわれても別に反論する余地はない、年齢不詳な雰囲気を醸し出す女性だ。さすがに60代なんてぶっちゃけられると「いやいやいやいや」と首をフクロウみたいにぐるぐる回転させながら否定するけど、彼女の口から「本当なのよ」と聞かされれば、あ、そうなんですか。納得してしまうだろう。そんな人だ。会うときはいつも買い物帰りで、必ずフランスパンのはみ出た紙袋を抱えている。実はフランス人なのかもしれない。


「あの星座」僕はオリオン座を指差して訊いてみた。「あの星座、なんの形に見えます?」


 加藤さんはスーパーの袋とフランスパン袋を廊下に置いてから僕のひとさし指をちょこんと触り、「びよーん」とか言いながら指の延長線上にあるオリオン座にむかって腕を伸ばした。そしてまた、しばらくのあいだ空を眺めていた。僕も彼女と同じ空を見上げていた。飛行機が80年代ダンサーの股間のあたりを横切りながらチカチカと光を発していた。レ・ヒワイ。僕はフランス語で思った。


「私ね、あれは」と加藤さんは言った。

「はい?」と僕は声を裏返した。

「こうやって腰に手をあてつつ星を拳銃で撃とうとしている私座」


 彼女は80年代の漫画によくあるシーンみたいな仕草で「バン!」とか言いながら80年代ダンサーの股間を撃った。サロン・ド・ヒワイ。僕はよく意味もわからずフランス語を駆使した。年齢不詳の女性がダンサーの股間を狙う様子は確かにヒワイではあったけれど、そこには何かしらの美しさがあった。触れてはいけない。写真におさめても意味がない。ただ今、こうして見ることしかできない。だからこそ美しい“何か”だ。


 僕は立ち上がった。長時間の正座のせいか足が痺れていて、フランスパンみたいに硬く感じた。震える足をなんとか肩幅に広げると、腰に左手をあて、右手をすぅと伸ばし、僕は空に狙いを定めた。片目をつぶって見るオリオン座は心なしかいつもより輝いて見えた。もう図形は見えなくなった。ダンサーもどこかへ行った。


「こうやって腰に手をあてつつ星を拳銃で撃とうとしている僕座でもありますね」

「少年よ大志を抱け座でもあるわ」

 

 ここで流れ星でも見えればどことなくドラマティックなのにな、と僕は思った。でも当然都会の夜空に星が綺麗な線を引くはずなんてなかった。視界に入るのはオリオン座と思われている星座といくつかの明るく孤独な星と薄い雲のうしろで控えめに自己主張する月くらいで、これはこれでドラマティックといえなくもない。「コマンタレドラマティック」と僕はフランス語で呟いた。加藤さんはくすりと笑って肩をゆすらせた。


ホワイト・インカーネイション
ペーパームーンにこしかけて」
from 『WHITE INCARNATION』 , the pillows' 4th album.