童貞と表現

新宿のタワーレコードで行われたみうらじゅん山田五郎のインストアイベントを見てきました。みうら氏はやはりなかなかの逸材ですね。「なかなか」って、僕は何様だ。あれほど公共の場で「童貞」という単語がリピートされる光景はなかなか見れません。魂のルフランです。みうら氏が放つ童貞ギャグで笑いながらも、なぜか周りの視線を気にする僕。てか、みうらじゅんは19で童貞を捨ててるんですね。なんだよそれ。普通じゃないか。全然、まったく、とっても、普通じゃないか。10代で脱童貞て。僕は10代の終わりでようやく「左手で自慰る」ことを発見できたというのに、みうら氏は一足飛びに大人の階段を昇ってしまったのか。ううむ。「童貞」を芸にするのならば、やはり僕を初めとした純正の非モテのように20代半ばまで、童貞を――みうらじゅんの表現を借りると――“こじらせ”なければならないと思うのですが、どうか。ま、でも、みうら氏の放つ非モテオーラに不純物は混ざっていないってことくらい、僕にもわかりますよ(同族、いや同属ですから)。しかし、みうら氏は別として、昨今の「性春」ブームというか、明らかにソーニュー経験者である人が高らかに謳いあげる「童貞賛歌」ってものに、僕は居心地の悪さを感じざるをえません。ソーニューした時点で童貞の精神性は、どうやったって損なわれるんです。説得力がなくなる。それはリアルな表現ではないと僕は考えます。まあ、ああいう「童貞賛歌」は、基本的に「非童貞によるノスタルジー」っていうか、10代の頃の自分を懐かしがっているだけの感傷だから、世の大勢を占める20代ソーニュー経験者には面白いのかもしれませんけど。僕のようなサラブレッ童貞には面白くもなんともない。むしろ嫌悪すら覚える。「お前ら、何にもわかっちゃいねえ」と言いたくなる。おそらく秋葉原に生息するような種類のサラブレッ童貞たちも、似たような感情を抱いているのではないでしょうか。童貞ってものは開き直れる類の疾患ではないのです。内に内に隠し通さなければいけない。「ネタになる」とわかっていても、隠し通さなければいけない。相手の顔面を見ることのできないネット上であるからこそ、僕は自身の経験不足を面白おかしく書いていますけど。とにかく普通は隠します。その抑圧が一定に達すると、人は何かの形でストレスを消化、もしくは昇華しなければならなくなります。おかしくなっちゃいますから。僕はその手段に小説を選んでいるわけです。決して「童貞賛歌」ではない小説を書く。でも当然、小説の裏側、もしくは奥底では童貞の潮流が脈打っている。文字という「表面」、そして童貞心理という「内面」、両者の表裏一体性がもたらす化学変化過程に、真の童貞芸術と呼べるものが見えてくると僕は思うのですけどね。いつか、ソーニューを経験してしまう日が訪れるまで、僕はその芸術を模索し、同時に表現していこうと思います。うむ、うまくまとまった。うまくまとまった代わりに、また僕は大事な物をいくらか失った。やれやれ。