犬はおやつには入らない

明日は遠足なので僕はてるてる坊主を作ることにした。てるてる坊主さえ作っておけば気象庁の偉い人が多少強引な手を使ってでも天気を晴れにしてくれるの、とお母さんが教えてくれたからだ。お母さんの言うことはいつでも正しい。でも僕はてるてる坊主がどういうものかがわからなかった。何せ見たことも聞いたこともないのだ。これじゃあ作れるはずがない。そもそも作るものなのか? それすら僕には見当もつかなかった。てるてる坊主ならお寺にいけば嫌というほどいるわ、とお母さんは夕食のカレーにそこはかとなく緑色の粉を鬼気迫る表情で入れながら言った。そのそこはかとなく緑色の粉はなに、と僕が訊くと、お母さんは粉をペロリと舐め、「モロヘイヤの粉よ」と笑い、粉を入れる作業に戻った。モロヘイヤの粉か、と僕は思った。お母さん、モロヘイヤの粉をカレーに入れるとどうなるの? お母さんはコンロの火を弱め、二の腕あたりを微速で擦りながら、「カレーがとても美味しくなるわ、そう、とっても」と言った。「とっても?」「そう、空が飛べちゃうくらい美味しく、よ。ふふ」
「じゃあモロヘイヤの粉って、魔法の粉なんだね」
そこはかとなく緑色の湯気を吐き出す鍋を眺めながら僕は言う。
「そうね、魔法の粉ね」
お母さんは口元にうっすらと優しい笑みを浮かべて答える。
「飛べちゃうんだもんね」
「どこにだって行けちゃうわ」
僕はなんだか嬉しくなってきて、目を高速で開閉させながら、「じゃあさじゃあさ、明日の遠足にモロヘイヤの粉を持っていっていい?」と訊くと、お母さんはとりあえず僕の目には止まらない程度の速度でまな板に置いてあった包丁を掴み、笑顔はそのまま、首だけ僕のほうへ向けて、「ダメよ」と言った。お母さんの言うことは正しいとわかってはいるけれど、頭ごなしに否定されると僕もちょっと納得できない。「でもさでもさ、遠足で山に登ってさ、頂上でモロヘイヤの粉を食べて、みんなで空を飛べたらおもしろいよ。みんなでいっしょにさ。『お友達とは仲良くしなさい』って、お母さんいつも言ってたじゃない」

「いい、ぼうや。よく聞いて」
「うん」こうやってとりあえず僕の目には止まらない程度の速度で鼻先数センチの距離に包丁を近づけるのはお母さんがお説教をするときの癖だ。僕は何かまずいことを言ってしまったらしい。しまった、と舌をペロリと出そうとしたけれど、そんなことしたら舌がポロリと切断されてしまうのでやめた。
「おやつはいくらまでって言われた?」
「300円までだったよ」
「じゃあ、ダメね。モロヘイヤの粉は持っていけないわ」
「300円を超えちゃうの?」
「超えちゃうわね」
「じゃあ、しかたないね。無理なこと言ってごめんなさい」
「いい子ね。お利口さん」
お母さんはとにかく僕の目には止まらない程度の速度で包丁を引き、反対側の手で頭を撫でてくれた。お母さんはいつも優しい。僕はお母さんが大好きだ。
「んー、でも、そしたらどうやってみんなで一緒に楽しく遊べばいいのかなあ」
「ポチを連れて行けばいいじゃない」
「ポチ? うん、それいいね、頂上で追いかけっこができるよ」
「ふふふ、嬉しそうな顔」
「でもさお母さん、うちのポチは30万円くらいしたんでしょ? 300円、超えちゃうよ」
「安心しなさい、犬はおやつには入らないの」
「ほんと?」
「お母さんが嘘を言ったこと、ある?」

僕はこれまた嬉しくなってきて、両手でふとももを激しく叩いた。ふとももが熱くなり、とにかく駆け出したくなった。明日の遠足が楽しみで楽しみで、もう今夜は眠れるかどうかわからないくらいだ。こうなったら、絶対に明日は晴れにしてもらわなければならない。いてもたってもいられなくなって、僕はてるてる坊主を捕まえに行くことにした。夕飯までには帰ってきなさいよ、とお母さんの声が聴こえた。はぁい、と僕は返事をし、靴を履くか履かないかのうちにドアを開け、家を飛び出した。