篠塚の打球

「わたし、高校を卒業したら上京して篠塚になる」
ことし18になるひとり娘が、夕食の席でいきなり宣言した。ことし50になる私はその時咀嚼しようとしていた肉じゃがを喉に詰まらせて窒息死しかけた。生きていればことし75になる祖母が三途の川の向こう側から「はよう帰れボケナス!」と怒鳴ったので私はなんとか現世に帰還することができた。ゲホゲホ、と激しくむせ返る。ことし48になる妻が背中をさすってくれる。コップ水をグイと飲み干し、一呼吸つく。
「お前、今、なんて」
「決めたの。わたし、篠塚になるって」
「馬鹿なことをヨハネパウロニセイ!」
馬鹿なことを言うな、と叱りつけるつもりが、先ほど気管に詰まった白滝が逆流してきて、私は再びむせた。妻が心配そうに「お水、もう一杯飲みます?」と訊いてくるが、それを手で制し、息を吸って、吐き、三秒の間を置いてから、改めて怒鳴りつけた。
「馬鹿なことを言うな! 篠塚だと? ダメだ、許さん」
「馬鹿って何よ! お父さんっていっつもそう! ダメだ、ダメだ、って。なんでダメなのよ! 説明してよ!」
娘の強い語気に圧されてかどうかはわからないが、頭髪が一本、はらりと食卓に落ちた。普段から気の強い娘ではあったが、今回は本気で本気らしい。若者言葉でいえば、「マジでマジ」なのだ。これは、気を引き締めねばならない。同時に毛根も引き締めねばならない。つくづく、父親ってものは楽じゃないな、と思う。可愛い一人娘の夢だ、出来ることなら応援してやりたい。だが篠塚だ。これはいけない。不幸になるとわかっていて、娘を篠塚になどならせてやるものか。
「いいか、よく聞け。お父さんはな、これでもお前よりずっと長く人生ってもんをやっている。当然、昔は若かった。夢を追い続けようとするお前の気持ちはわかるつもりだ」
「それなら」
「話は最後マディソングンノカモノハシ!」
話は最後まで聞け、と父親の威厳たっぷりに凄むつもりが、これまた先ほど気管に詰まった――今度はじゃがいものかけら、だ――肉じゃがの名残が逆流してきて、私は飽きもせず咳き込んだ。どうやら、私は動揺しているらしい。落ち着け。私が長年手塩にかけて育ててきた娘が、道を踏み誤ろうとしているのだ。今落ち着かずに、いつ落ち着くのだ。ゴホン。娘に気づかれぬよう、小さく深呼吸。静かに言葉を紡ぎだす。
「俺の大学の友人にもな、篠塚を夢見て頑張ってる奴はたくさんいた。あいつらは、それこそ普段の生活を犠牲にしてまで、篠塚になるために、努力していた。本当に、見てるこっちが気の毒になるほど凄まじい努力だった。それでもな、よく聞けよ、篠塚になれたやつなんて一人もいなかった。みんな夢を失って、廃人みたいになっちまった」
うっ、と、娘が少しだけ引きさがる。私が真剣に話しているのがわかったのだろう。当たり前だ。これは決して作り話ではない。実際に、篠塚を目指した友人たちは全員夢半ばで挫折した。そして堕落していった。“廃人”というのは若干の誇張を含むけれども、なりふり構ってはいられないのだ。
「で、でも、やってみないとわからないじゃない」
「篠塚になれたとしてもだ、お前、あのニュース知らないわけじゃないだろう? 世界的に有名な篠塚が自宅で首吊って死んだ事件。『篠塚を続ける自信がなくなった』と書かれた遺書が残されていたらしいな。篠塚ってのはな、お前が思ってるほど楽な職業じゃない。やってみるとか、そんな甘い考えじゃどうにもならないんだ。一流の篠塚が打った球をみたことあるか? ――こう、グワアーっと、曲線を描いて、ポールに触れるか触れないかのところをスゥーっと抜けていく。あれは努力の賜物じゃない、才能なんだ。才能だけがものをいう世界なんだ」
私は娘を諭しながら、考えていた。昨日まで篠塚になろうなんてそぶりさえ見せなかった娘が、今日、こうして突然の告白をしたのは、いったい何故なのか。親として一番好ましくない考えが頭をよぎる。そう、男――娘ももう18だ、付き合ってる男の一人や二人くらいはいてもおかしくない。そんなことまで束縛するような気は全くない――ないが、もし、娘の相手が、篠塚のことを吹き込んだのなら、私は許すことができない。若気の至りで済む話ではないのだ、篠塚は。
「お前もどうして篠塚なんだ。原とか、中畑とか、吉村とか、もっと若者に人気があって、しかも安定した仕事はたくさんあるだろう?」
「……」
今度はお黙りだ。くすん、と鼻をすする音。泣き落とし作戦か。私は今が食事中であることを思い出し、わかめと豆腐がふんだんに入った味噌汁をすすった。味噌汁は冷めていた。あたためなおしてもらおうと妻にお椀をさしだそうとしたその時、うつむいていた娘が、ぼそりと呟いた。
「……もん」
「なんだ? 何か言いたいことがあるなら言いなさい」
「……きゃ、…だもん」
「はっきり言わなきゃワカノハナ!」
「篠塚じゃなきゃやだもん! お父さんのバカ!」
はっきり言わなきゃわからないだろう、と怒鳴りつけたつもりが、しぶとく気管に残っていた肉じゃがの逆流により意味を為さない奇声となり、私が叫ぶのとほぼ同時に娘が私の顔面へ味噌汁を投げつけ豆腐やわかめが眼球に触れたことによるあまりの痛みに再び三途の川へ旅立ち生きていればことし75になる祖母が「お前も子育ての苦労がわかったろう」と優しく語りかけてきたので私は泣き崩れた。