レンタルショップの女〜悲哀の坩堝〜

二級河川で溺死しかけていたわたしを助けてくれようとしたのは犬かきが上手な男だった。彼はあまりに犬かきが上手だったので、わたしは思わず「おじょうず」と言って手を叩いてしまった。溺れないようにバタつかせていた手を叩いてしまったのでわたしは深刻に沈んだ。言うまでもないことではあるけど、わたしは泳げない。水が容赦なく口の中へ流れ込んでくる。二級河川の水は美味しいとは言えないまでも一級河川よりは澄んでいてこれならアユも放流できるかもしれない、そんなことを考えているとだんだん意識が遠のいてきて、このままではやばいと思ったわたしは手を必死に動かして浮上した。男はまだ犬かきをしていた。助けるなら早く助けて、水を吐きながらそう嘆願したわたしのことを男は真顔で見つめ返した。考えてみれば、わたしを助けようとして颯爽と二級河川に飛び込んだはいいが、彼はそこから動いてない。一ミリもわたしのいる方向へ泳いできていない。ただ真顔で犬かきをしているだけだ。
「失礼ですが」わたしは質問してみた。
「はい」男はやはり真顔で答えた。ふとい眉が二級河川の水で濡れている。
「もしかして泳げないなんてことはありませんよね?」
「もしかしなくても泳げません」
わたしは脱力して「ダメだこりゃ」も言う暇なく沈没した。しかし男がアテにならないとわかってしまった以上、自分を助けられるのは自分しかいない。そう思いなおして再び腕をバタつかせ浮上する。わたしはまだ25だ。沈没船になるにはまだ早すぎる。
「失礼ですが」と、今度は男のほうが何か訊きたげに話しかけてきた。
「なんですか」と、わたしは多少つっけんどんに答えた。男は真顔でホバリング犬かきを続けながら何かを言いかけようとしたが、なかなか踏ん切りがつかないらしく咳払いをした。わたしと彼の間には4メートルほどの距離があったが、唾がこっちまで飛んできた。汚いなあ、と思ったが、水はふんだんにあるのだから洗い落とせばいいだけの話だ。男はその後も三回ほど咳払いをした。わたしは三回ほど唾を顔面に浴びた。
「いったいなんですか、言いたいことがあるならさっさと言ってください」
「駅前のレンタルショップで働いていらっしゃいますよね?」
はぁ? 意表をつかれたわたしは手の運動を止めてしまい沈んだ。二級河川の水を口いっぱいに味わいながら男の質問の意味を考える。こんな状況で何を言ってるのかしらこの犬かきは。水中で考え込んでいるうちに溺死しそうになったので再び浮上する。
「ぷはっ。何ですかこんなときに」
「僕の顔、見覚えありませんか」
「あっ、そういえば」いつも閉店間近にB級映画を借りていく変な客だ。
「あなたの顔が見たくて、ずっと通ってたんです」
「えっ?」
「好きです。付き合ってください」
あまりのシベリア超特急展開に、自分が今二級河川で溺れているという事実を忘れそうになる。危ない。手を動かすのをやめてはいけない。真顔で犬かきをしている男性に告白されるなんて、言うまでもない、人生で初めての経験だ。混乱する。なぜか胸が高鳴る。
「こんなときに、そんなこと、い、言われても」
「ははは、そうですね。でも好きな人が溺れてるだなんてチャンス、そうそうありませんから」
そこで初めて彼が笑った。笑顔で犬かきをする彼。二級河川の水のしぶきが太陽光線に照らされて、笑顔が必要以上に輝く。わたしは彼のことを不覚にもかわいいと思ってしまった。溺れているときに愛の告白をするような変人にときめいてしまったのだ。つり橋効果ならぬ二級河川効果。ぶんぶん、と首を振る。昔からオトコを選ぶセンスがない、とは友達に言われてたし、それを自覚してもいたけれど、さすがに犬かき男はありえない。こんなぽかぽかした春の昼下がりにわけもわからず溺れて、その上わけのわからない犬かき男と恋に落ちるだなんて、どこまでわたしは不幸なんだ。
「付き合ってる人が、いるんです」わたしは小声で言った。
「えっ?」
きこえない、という意味のジェスチャーだろうか、男は手を耳に当てた。その結果犬かきのバランスが崩れて男は「えっ?」の態勢のまま沈んだ。あぶくが水面にぼこぼこと生まれては消え、生まれては消える。おそらく水中で「すいません聞こえませんでしたもう一回言ってください」とかそのようなことを並べ立てているのだろう。そして水をしこたま飲み込んでいるのだろう。してやったり、今のうちだ、と思う。この場から離れねばならない。二級河川効果で恋に落ちてしまう前に、一刻も早く。わたしは泳げないけれども、そんなことは言っていられない。必死で手と足をバタつかせる。それは計らずも犬かきの動作になってしまう。ドーピングをした老齢の亀のようなスピードではあるが、確実に岸に向かって進むことができた。人生で初めて泳ぐことができたのだ。やればできる。こんなときなのに嬉しくなった。わたしは自転車に乗ることもできないが、きっと自転車と一緒に二級河川に飛び込めば、乗れるようになるのではないか。今までできなかったことも、二級河川で溺れれば、なんだってできるようになるのではないか。いつもうまくできないお化粧だって、お料理だって、取扱説明書を読むだけで頭が痛くなるビデオデッキの操作だって、みんなみんな。そしてもちろん、素敵なヒトとの素敵な恋だって――