VIP常務的経営管理システム論

じっくりコトコト煮込んだスープをもう一回じっくりコトコト煮込んだらどのくらいじっくりコトコト煮込んだスープになるのだろうかと思った俺はさっそく実行に移そうと考えコンビニ目指して自転車をこぎだしたところ道端から犬が飛び出してきたのでうわお前危ないよと必死で避けたらハイ残念危ないのは俺でした。つつじの花壇に頭から突っ込んで最初に思うのは蜜の味、口内舌上春爛漫で今年も暖かくなってきたわねえ、あらまあホントねえ奥様オホホホホ、なんて井戸端口調で呟いたりなんかして、さてさて馬鹿なことやってないで早くじっくりコトコト煮込んだスープをじっくりコトコト煮込まねば、起き上がろうとする俺ハイこれまた残念、全身が痛くて起き上がれません。痛い、叫ぶ。叫ぶと痛い。痛いから叫ぶ、叫ぶと痛い。あらまあ奥様ホント痛いわねえ、井戸端会議で気を紛らわそうとするものの井戸端トークすら身体に響いてなお痛い、オホホホと高笑いすらままならぬ有様、オボボボビャとかわけのわからない音声が自分の口から出てくるのでこれはもう黙ってじっとしている他ないと悟る。俺がかばった犬は別に感謝の意を表明して感謝状を贈呈してくることはなくつつじと同化した俺を数秒物珍しげに見つめてからさっさとどっかに行ってしまった。あいつはいつか棒に当たるだろう。
視線を感じるのにさほど時間はかからない。誰かが俺を見つめている。これほど強い視線を浴びるのは久しぶりだ。いつだったか、鏡の中の自分とにらめっこの決勝戦を行ったとき、さすがは優勝決定戦、朝に始めた試合が翌朝まで続き、俺と鏡の中の俺が両方とも衰弱死しかけたことがあったが(試合結果は引き分け)、その時鏡の中のアイツが放った視線力と同等、もしくはそれ以上の強い視線だ。誰だろう、確認しようにも身体が動かない。
「何をしていらっしゃるのですか」
そいつは話しかけてきた。耳のすぐ近くで声がして息遣いまで聞こえてくる。見りゃわかるだろ、じっくりコトコト煮込んだスープを買いに行こうとして花壇に突っ込んだんだよ、俺は説明しようとする、しかしそんなことがただの通行人にわかるわけないし、喋ると身体が痛むので黙っている。状況から察するに――とそいつは言う、「じっくりコトコト煮込んだスープを買いに行こうとして花壇に突っ込んだ……といったところでしょうか」
「なんでわかったホギャ!」
俺は驚くと同時に声を出すと同時に痛みで悲鳴をあげる。
「ああ、じっとしていなさい。花壇が傷む」
あんた何者だ、と俺は念じてみる。よくわからないがこいつは只者じゃない、声だけ聞けばただのおっさんのようである、けれどたぶんただのおっさんじゃない、名の知れたおっさんだ、やんごとなきおっさんだ、こういうとき俺の勘はよく当たる。
「私ですか? 私はただのサラリーマンですよ」
やはり通じる。ただのサラリーマンなどと言っているが絶対にただのサラリーマンであはない、だいたいただのサラリーマンは「サラリーマン」のことを「サゥラゥリーゥメン」などとサにアクセントを置きそのうえ必要以上の巻き舌を駆使して発音しない、彼はやんごとなきサラリーマンだ、サゥラゥリーゥメンなのだ。
「確かに役職上は常務取締役となっておりますが、そんなに大したものじゃないです」
“常務が真昼間にこんなところで何をやってる?”俺はまた念じる。
「変なことを訊きますね、仕事ですよ」
“花壇に突っ込んだバカな男を見つめるのが仕事なのか?”
「ご名答。おはようからおやすみまでを常に見つめ続けるのが私の務め、つまり常務」
“今日の見つめ対象は俺になったということか?”
「そのとおり。今日のあなたは我が社にとってのVIPです」
俺は会社組織に属したことがないのでいまいち常務だとか専務だとかシェンムーだとかその辺の区切りというか厳密な違いがわからない、だから彼の言い分を否定することができない、俺が知らないだけで会社の常務という役柄の人間は皆どこかで誰かを常に見つめ続けているのかもしれないのだ。しかし俺を見つめたところでどういうメリットがあるというのだ? わからない。わからないことは訊けばいい。
「それは会社の経営の根幹のところに関わってきますね」
“の”が多いな、と思う。
「そんなに『の』が多いですか? はは、気をつけますよ。話を戻しますけどね、会社というものは言うまでもなく人の集まりでして、人がいろいろ頑張って利益を出そうと頑張るわけですね。はじめに人ありき、なのです。人を無視していては、経営が成り立たない。だから私は人を無視せずに見つめるのです。平社員のうちはたまに無視しても構わないのですけれど、常務ともなれば、常に見つめなければならない。もちろん専務は専ら見つめなければならない。CEOに至ってはまばたきすら許されない。役員ってのも楽じゃないですよ。我々の働き如何で会社が傾いたりする。まあそのスリルが転じてやりがいになるわけですけれど」
俺は納得できたようなできないような微妙な表情を浮かべようとしたがそんなことするまでもなく常務には俺の気持ちが伝わっているはずだった。何せ常に人を見つめるのが務めの常務だ、人間の微妙な心の動きを察知するくらいお手の物だろう。それにしても、さっきから俺はつつじの花壇にドタマから突っ込んだ状態で常務と話をしているわけだが、ハタから見ればその光景は少なくとも普通じゃない、むしろとてもおかしい、そのはずなのに誰も声をかけてきたりはしない、一体これはどうしたことだ。
「人々は経営管理システムの原理をわかっていないのですよ」
彼がそうこぼしている間にも一人の会社員らしき男が足早に場を通り過ぎていく。
「だからあなたのようなVIPを無視してしまう。こんなことで日本経済が上向きになるはずないんですよねえ。まったく」
常務は溜息をついた。生暖かい吐息が俺の耳たぶのあたりをくすぐった。逆に風は涼しさを増していった。気づけばもう太陽は西に沈もうとしている。俺はじっくりコトコト煮込んだスープのことを想った。常務は俺の考え事に気づいているはずだったが、特に反応せず、ただ俺を見つめ、黙っていた。風が凪いだ。じっくりコトコト煮込んだスープをじっくりコトコト煮込んだことはあるか、と俺は訊いた。ありませんね、と常務は答える。いったいどうなると思う、と重ねて質問する。
「そう――ですねえ、やはりじっくりコトコト煮こみすぎたスープになるのではないかと」
だよな、と俺は笑った。ですよ、と常務も笑った。