RE:乳牛

http://d.hatena.ne.jp/mikadiri/20040902#1094084827
冷蔵庫のない生活に慣れていない人はまずここを読みましょう。よく訓練された人は「ほんとこの世はチコクだぜー」と食パンを咥えながら左右確認せずに曲がり角を曲がりましょう(註・乳牛と聞いてピンときた人はそのまま読み進めてください、の意)


「乳牛」。その文字を見てなぜかときめいてしまう。なんでやろう、なんでやねんやろう自分、と関東風関西弁で考えてみるも、はっきりとした理由はわからない。ただ、心臓の鼓動が少しだけ早くなり、空の青が急に鮮やかに見えたりする。全く手入れされていない草ぼうぼう空き地が、現代人が忘れかけた「自然」そのものに思えて、いとおしくなる。それが「乳牛」の力。僕のバイト先からの帰り道にさりげなく設置されている、書道教室の作品を飾る掲示板――通称“乳牛掲示板”は、世知辛い世の中に疲れてしまった僕を優しく包み込んでくれる清涼剤だ。ええ、ええ、ここを読んでいる親切な人の9割がタウンページを開いて黄色い救急車を呼んでくれているのはわかっています。ありがとうございます。でもまだ、僕は黄色い救急車に乗るわけにはいかない。なぜって? ふ。
乳牛掲示板に「乳牛」の文字が登場しなくなって、結構な月日が経った。その間も掲示板には魅力的な文字群が踊り狂っており、僕の心の錆びついた琴線をバビンンバビンと震わせてきた。もうやめてぇな、ってくらい琴線に触れた。が、やはり、どこか物足りない。「乳牛」のない掲示板は、クリープのないカフェオレ、軟骨のない居酒屋、はにゃーと言わないカードキャプター、日本語が喋れるラモス、水着卒業宣言なるポツダム級の宣言をするグラビアアイドル――まあなんでもいいのだけれど、とにかく、重要なものが欠けている。非常に、完全に、失われている。なぜ、掲示板の主は、「乳牛」を排除してしまったのだろうか。考えても答えがでない日々が続いた。掲示主の家で飼っていた乳牛が美味しい乳を出すことができなくなって、主に嫌われたのだろうか。「そ、そんな、ご主人様、低脂肪乳のパックを買ってくるだなんて、アタシの乳はもう用済みってこと?」「うるせい! お前は黙って搾られろ!」「ヒドイ! もういや! こんな生活!」「どこにでも出てけ! この牛!」「牛に牛っていうほうが牛なのよ!」「輸出するぞコルァ!」「ひっ!」
そんな寸劇は繰り広げられていなかったことが、今日はっきりした。僕は今朝、久々にお習字が貼り出された乳牛掲示板を見た。ああ、と僕は思った。


「乳牛」「はやぶさ
「公害」「はやぶさ
「子牛」「山里」
「子牛」「もみじ」


月日は目にも止まらないスピードで過ぎ去っていき、どこかで誰かが苦しんでいたってそれは同じで、僕らはなんとかそのスピードに追いつこうと、必死で走っている。なんでこんなに辛い思いをしなければいけないのだろう、こんな人生になんの意味があるのだろう、そう思うことも、時々だけれど、確かにある。でも苦しいことだけじゃない。新しい生命は今まさに生まれ続けていて、この星だって、常に息切れしている僕らを癒そうと、少しずつ模様がえしている。ふと立ち止まってみれば、そんなありふれたことが、とても大切であると気づく。空を仰ぐと、ほんのちょっぴりだけ赤く色づいた葉っぱが見えた。飛行機雲がひとつ、すぅと伸びていた。僕はチャックを全開にして(家に帰ってから気づいた)、その場でしばし、なにごとか考えていた。
ハッピーバースデイ、子牛。おめでとう、乳牛。