東京へ行きたい

夜露に濡れた雑草がほてったお尻をやさしく包み込んでいる。隣に座る彼女の臀部もきっと、ささやかに、草原のもてなしを受けているにちがいない。僕らは並んで座り、星を見上げている。雲ひとつない空だ。数え切れないほどの小さな輝きが頭上にある。
「こうやってあなたと星を見るのも、これが最後になるのかしらね」
 彼女は言った。僕は何も言わなかった。かける言葉が見つからなかったのだ。
「明日、行くんだね」
「うん」
 僕はようやく言った。我ながら小さな声だった。すずめの寝言でももう少し響く。咳払いをし、もう一度「うん」と発声する。今度は大きすぎた。
「聞こえてるわよ」と彼女は笑った。彼女はいつも僕に笑顔を見せる。
「地球、だっけ」
「そう。緑が豊かな星だと聞いてる」
 彼女はハサミをカツ、カツ、と二度鳴らした。それがどういう意思の表れなのかはわからなかった。緑、と僕は思った。地球という星がどの程度グリーンフルであるかは少ない資料を通して得た知識しかないけれど、このバルタン星もじゅうぶんに緑だ。至るところに僕らがいま座っているような草原がある。空気がうまい。小川のせせらぎがそこらじゅうから聞こえてくる。子供のころ、よく自前のハサミで釣りをしたっけ。ザリガニを捕まえたときは卒倒しかけたものだ。俺だ、俺が釣れた! 赤くて小さいミーが。そう叫んで町中を走り回った。理想的なフォームで走った。それがきっかけで陸上競技の才能を見出された。駆けのぼったスターダム。そして気が付けば、異星人との交流を目的とした親善大使に選ばれている。バルタン生とは本当にどう転ぶかわからないものだ。素晴らしい思い出がたくさんあるこの星から、なぜ僕は旅立とうとしているのか。そうする必要があるのか。わからない。でも、理由はある。
「夢だったもんね、宇宙に行って、異星人と友達になるの」
「東京という素敵な街があるらしい。とりあえずそこに行ってみようと思うんだ」
「握手さえすれば、誰とでも友達になれるって、言ってたね」
「僕はそう信じてるよ。君との出会いだって、初めは握手だった」
「こう、右手を差し出して」
「うん」
「東京の人たちと握手するのね」
「うん」
「あなたが東京に行っちゃったらわたしはどうなるの?」
 彼女はうつむいて、僕の右肩をハサミで思いっきり挟んだ。あまりの痛みに僕は思わず分身しそうになってしまった。しかしそこをこらえる。僕よりも、僕なんかよりも、彼女のほうがよほど苦しんでいるのだ。僕は彼女を抱きしめた。地球行きを告げたときに彼女は笑っていたけれど、本当は傷ついていることくらい、鈍感な僕にもわかった。彼女を傷つけてしまうことだってわかっていた。それでも僕は夢を選んでしまった。安っぽいドラマのシナリオに巻き込まれてしまった二人。しかしその物語を紡いだのは僕なのだ。
「長い仕事になるかもしれない」と僕は言った。「いつ帰ってこられるか、明言はできない。一週間後にふらりと戻ってくるかもしれない。十年経っても帰ってこないかもしれない」
 彼女はうつむいたまま、僕の胸に顔をあずけていた。
「でも、これだけは約束できる」
 僕は彼女の頭部をやさしく撫でた。彼女は顔をあげた。まぶたが赤く腫れていた。
「僕は、いつまでも君が好きだ。僕が愛情を込めて握手する相手は君以外にいない」
 風が、月光に照らされるオオイヌノフグリの一群を揺らめかせた。ささあと柔らかな音が辺りに漂う。手紙を書くよ、とか、いつまでも待ってるわ、とか、愛してる、とか、愛愛愛愛愛してると繰り返し言ってるじゃない、とか、そんな言葉はこれ以上必要なかった。僕らはゆっくりと、お互いの存在を確かめ合うかのように、熱く、ハサミを重ねた。夜空に輝く無数の星と、ささやかな合唱に興じるオオイヌノフグリたちだけが、二人を見守っていた。きっと、と僕は思う。きっと、みんな友達になれるはずさ、と。