焼け野原でピボット


 はこびるじゃないはびこるだ、と今日だけで三回も指摘された。そのうち一人は不快な顔をし、もう一人は非常に不快な顔をし、最後の一人は深いため息をついた。つまり全員がはこびるを認めていないのだ。はびこるがはこびっている。歩きつかれた僕は公園のベンチに座り、腕につけた茶色い革ベルトの時計を見た。時針は五時半を指している。でも実際は何分か何秒か、正確な時刻とは微妙なズレがあるのだろう。人はみな「ほぼ五時半」を生きている。それで実害はない。であるのに、はこびるははびこるでなければいけない。はこびるははこびることができない。不思議だ。いつも思う。ミステアリスだ。


 少年がバスケット・ボールの練習をしている。薄い緑色の半ズボンをはいているということは、彼は小学四年生にちがいない。三年生は黄色であるべきだし、五年生は長ズボンに目覚める年頃だ。高校生のときバスケット・ボールの全国大会で優勝した同級生と名前が似ている僕は、このスポーツには少しうるさい。片方の足を軸にグルグル回るテクニックなどはお手のものだ。何と呼ぶテクニックだったか。米料理的な雰囲気の語感だけは覚えている。少年は夢中でボールを突く。ああ、ボールを持って走っちゃいけない。米料理するんだ。しないといけない。反則をとられてしまう。彼の放ったシュートは惜しくもリングにはじかれた。表情は見えない。彼は転々とするボールを全速力で追う。


 日が傾きはじめている。雲がうすくカーテンを張る。オードソックスな夕暮れだ。いや、オーソドックスだったろうか? そういえばさっきのも、ミステリアスと言うべきだったかもしれない。僕は苦笑して耳の裏を掻く。だんだんと空がにじんでいく。美しくも儚い山吹色に包まれ、景色は優しい焼け野原になる。ソックスだろうがドックスだろうがアリスだろうがリアスだろうが、自然の前ではどちらでも大差はない。じつに些末だ。人間はすぐ小さいことにこだわって、真実を見失う。ソックスは靴下だろう、と糾弾されたのを思い出した。馬鹿げてる。リアスだって海岸だろうが。不思議なのはアリスだ。相手は反論できない。結局彼らは、誰が決めたのかもわからない常識などという法で勝手に僕を裁こうとしていたのだ。くらだない。


 僕はシャツの胸ポケットから煙草を取り出した。マルボロ。店で「マルロボをひとつ」と言ったら笑われたことがあったっけ。ボロよりロボのほうが二十一世紀的だろうが――やめよう、僕が細かいことにこだわってどうする。ゆとりを持つべきなのだ。大きくあれ。僕よ大きくあれ。ズボンの尻ポケットから出したジッポ・ライターを点火する。オイルの残量が少なかったのか、炎はすぐ空気に握りつぶされる。まあよくあることだ。大きい自分は動じない。再び点火する。消える。点火消える。点、点点点点、点火消、


「トウモコロシ!」


 叫んでライターを地面に叩きつけた。心臓の鼓動が早く、不規則だ。これはもう認めるほかあるまい。僕はいらついているのだ。誰かが、何かが、リアス式海岸的な形状の檻に僕を押し込めようとしている。窮屈だ。ライターは何度か地面に跳ねてからぐったりした。立ち上がって取りに行く気分にはなれなかった。僕はしばらくうつむいて、まつ毛を右手の小指の爪でかまっていた。まつ毛。漢字で書けない数少ない毛だ。


「これ、おにいちゃんのだよね?」


 は、と顔をあげる。見ると、先ほどの少年がライターを拾い上げて僕に差し出している。あの緑色の半ズボン。間違いない。ボールが僕のつま先を軽くこづいた。今度はこっちに転がってきたのか。僕はボールを手にとり、立ちあがった。少年と視線が交差する。床屋に行ったばかりのように見える短い髪が薄く汗に濡れている。ぼん、ぼんと球を地面に叩きつけながら近づく。若干猿が木から落ちて僕は突き指する。「カープ!」と目を見開いて言った。


「あはは、へたくそ」と少年は言った。

「糞餓鬼」と僕は漢字で言った。


 彼はライターを半ズボンのポケットへねじ込み、ひょいと僕からボールを奪うと、てんてんと突き始めた。取ってみろと言わんばかりだ。こんにゃろめ、と手を伸ばす。彼はひょいとボールを持ち上げて避ける。そしてまた、てんてん。「いっけないんだあ」と僕は言った。「いったん止まったら、ボール突いちゃいけないんだぞ。動いちゃいけない。米料理するんだ」


 少年は首をかしげた。ある日突然「人前で排便するのはごめんだ」と駄々をこね始めたチワワを見るような表情だ。そんな彼の困惑に構わず続ける。


「リゾット。そう、リゾットするんだ。片足を軸にぐるぐる回って敵をかわす」

「ああ、それのことか。ピ――なんだっけ」

「ピラフじゃない。リゾットだ」

「ピボットでしょ」

「そうとも言う」


 彼は僕にボールをパスしてきた。突き指をしないように気をつけすぎていたら捕球を失敗する。球状の物体は僕の胸を直撃した。ゴッホ、と僕は言った。少年は笑った。彼の緑色のズボンは橙色の世界に浮き上がって見えた。映えていた。胸のうずきはボールによるものだけではないような気がした。立ちすくんでしまった僕を心配したのか、少年が顔を覗き込んでくる。僕は彼の頭を、ボールを突くよりも幾分優しく、ぽんぽんと叩いた。


「俺は君がうらまやしいよ」

「うらやましい、でしょ」と少年は言った。

「そうともいう」と僕はひらがなで言った。