Shall We

珍しく脚色せずに日記を書きます。なので楽しくはないかもしれません。
昨日の昼のことですが、僕は「空がなくから〜空がなくから〜」と童謡の一節を口ずさみながら煙草を買いにでたのです。なぜなら煙草がなくなったからであり、それ以外に理由はありません。アパートから徒歩三十秒あたりに煙草屋があり、僕は自動販売機に硬貨を入れ、ようとしてミスり、落としたものを拾い上げて入れ、そしたら何も買ってないのにお釣りが出てきてラッキークッキー八代亜紀――まあそれはどうでもよく、紆余曲折を経て硬貨を投入し、赤いランプが無数についた自動販売機の前で「どれにしようかな」と迷っていると、後ろから声がしました。
「お兄さん」
僕は末っ子なので、「お兄さん」と呼ばれるはずはなく、父と母が未だに避妊具をつけずに性交をしている可能性は否定できませんけれど、とにかく弟がいた記憶はありません。従って僕が呼ばれているわけではないだろうと結論し、振り返ることなく「どれにしようかな天の神様の言うとおり」をしておりました。「鉄砲撃ってばんばんばん」です。「もひとつおまけにばんばんばん」も必要です。とどめに「たーまーてーばー」
「お兄さん」
ガキがいました。坊主です。白いランニング・シャツとベージュの半ズボンという服装で、今にも人類で初めて木星に行ってしまいそうな雰囲気を漂わせていました。ガキは僕を見つめていました。どうやら「お兄さん」とは僕のことであるらしいのです。しかしまだ確信は持てず、もしかしたらガキの目標は僕でなく、僕の後ろに鎮座する自動販売機なのかもしれない。兄たるジドー・ハンバイキと弟たるシュドー・ハンバイキの感動的な再会シーンを僕が邪魔してしまっていえるのかもしれない。そう考えると、恥を晒すのが嫌で返事ができませんでした。なぜか右方向からやってきた空き缶漁りのオッサンが僕らを見て自転車を止めました。口を半開きにしてこちらを眺めてきます。ハンバイキ一家の集合場所だったのかここは。僕がわけわからなくなってきたとき、ガキが再び口を開きました。
「お兄さん、ヒマですか」
ジドー・ハンバイキさんは常に自動で販売しなければならないわけで、暇でないのは誰が見ても明らかであり、やはりガキは僕に対して呼びかけているようです。こういった場合、即座に返答できるほど脳の回転が速くない僕は黙り続けました。
「ヒマですよね」
決めつけられました。煙草屋の婆さんが戸を開けてこっちを見、「ムフー」みたいな顔をしてまた引っ込みました。
「サッカーしませんか」とガキ。
「サッカー」とようやく僕。
「……」半開きで空き缶爺。
浴槽の中、肛門に力を入れ放たれた屁、それが昇っていき水面で泡をつくり、弾けていくほどの時間が経ちました。
「ヒマでしょう、サッカーしませんか」
ガキは今にもピテカントロプスになってしまいそうなのに、口調は恐ろしく丁寧です。「遊ぼうぜ」だとか「暇人なんだろ」とか言われるのだったら、今日びのガキは言葉づかいがなってないなあ、可愛いもんだ殺すぞ、帰って勉強しろ、その前にその手に持ってるニンテンドーDSを俺に渡してからな、とか対応できなくもないのですが、このガキはマリアさまに見られてもお咎めがなさそうなほど物腰やわらかでしっかりした日本語を使ってくる。とても困ります。不気味ですらある。おにぎりが好きそうなのに。空き缶が大量に詰め込まれた袋が自転車の荷台で少しだけバランスを崩してカラカという音をたてました。
「暇じゃないよ」と僕は言いました。
「サッカーしませんか」とガキは言いました。
純粋な瞳に見つめられ翻心――なんてことは起きません。僕はもともとガキが嫌いですし、何より今の状況は異様すぎました。僕、ガキ、半開きが等しい距離を保って三すくみのようになっているのです。ガキはいいとしてお前は誰じゃい、と半開きに怒鳴りつけたくなりましたが、この妙な距離感がそれを許しません。それに僕は紳士です。紳士は怒鳴れません。
「サッカーだったら友達とやりな」
僕は言い、販売機のボタンを押しました。ピーガチャと出てきた煙草を、かがんで取り出しました。また「ヒマでしょう」とか言われるのかと思っていたら何の反応もありません。ふ、と振り返ってみると、ガキと半は先ほどと同じ距離を保ったまま、ただただ僕を見つめていました。ここでようやく首筋に冷たいものを感じました。ゾッとするとはこのことか。もちろん、冷たさの正体は自動販売機のボディーでした。僕は無意識に後ずさっていたのです。
「とにかく暇じゃないから」
僕はそそくさとその場を後にしました。実際には「そそくさ」というより、身体がこわばっていたため「ココクカ」といった感じでしたけれど、とにかく長居をするべきでないと誰かが僕の頭の中で囁いていたのです。アパートへ戻る道を歩きつつ、まだ彼らは僕を見つめに見つめているのだろうか、と思いましたが、確認する勇気がありませんでした。等間隔を維持しつつ追いかけてこられていたら間違いなく卒倒です。ドアを開けるときも緊張しました。開けたら中にいるのではないかと。幸い、いつものゴミだらけな部屋が僕を迎えてくれました。ペットボトルの山がこれほどにも心強かったのは初めての経験でした。
あのガキは何だったのだろう。焦っていたため間違えて購入した「ピース」を吸うたび、僕はあのハンバイキ・トライアングルを思い出します。そんな何てことはない、少しだけ不思議なお話。そんなに暇そうか僕は。