NON BEN

ここ数日病に伏せっていたのである。病というか腹痛だ。腹痛というか下痢だ。食事中の人、飯食いながらこんなところ見るのは食事中に下痢の話をするくらい下品だ。とにかく下痢なのだ。ゲーリーゲーリーホームランじゃないほうのゲリである。僕は腹を壊しやすい人種として図鑑に載ろうとしているレベルの人間であるが、壊すとしても一時的なもので、何回かトイレで地獄の門すれば治る程度の下痢にしか遭ったことがなかった。健全なものだ。地獄の門の最中は確かに地獄の催し物的様相を呈しているが、「まあふんばれば治るし」という安心感が、僕をどこかしら楽天的にさせていた。今回もいつもと同じ、3ロダンくらいで脱ロダンだと思っていた。しかし違った。何ロダンしても治らない。あれおかしいぞこれ三笠の山にいでし月かも、と百人一首を駆使して驚く。まだ余裕があった。一日が経つ。未だ腹は下り続けている。この下り電車の終着駅はどこですか。車掌さんコノヤロウ答えないと機械伯爵に頼んで剥製にしてもらうぞ。独りギャグはもちろん空振る。正露丸糖衣Aを飲む。治らない。二日目になるともはや便は便の体をなしておらず、シャーである。ッシャーッシャー。排便時の痛みもない。ただッシャーッシャー。フォービューティフォーヒューマンッシャーッシャー。この辺でようやく背筋が寒くなり始める。僕の、野菜嫌いの僕の、食物繊維を日常的に摂取しない類の僕の、あの固い大便はもう戻ってこないのか。このまま僕はずっとロダンで下り電車に乗ってフォービューティフォー機械伯爵なのか。想像してみてほしい。軟便しかできない人生を。便秘はもちろん辛かろう。しかしゆるゆるすぎるのも困りものではないか。これから花火の季節、大和撫子が着る浴衣の帯がゆるゆるであ〜あ〜見えちゃうよお姉さんほら見えちゃったお姉さんでも年増に用はないぜお姉さん――なんてことがあるかもしれぬ。そのゆるゆるは歓迎すべきであろう。あろう、というかある。歓迎すべきである。しかし大和男児の尻の帯がゆるゆるであ〜あ〜草むらで人知れず夏の思ひ出ぽろぽろ――いやこの場合は思ひ出ッシャーッシャーか――なんてことは許されぬのである。あろう、ではない。許されぬのである。衰弱しきった状態でアルバイトへ行き、皆々様に迷惑をかけつつも、僕が考えていたのはこんな独りよがりの勝手な悲観的空想であった。ああ、固い便。君を泣く。君死にたもうことなかれ。
死にたもなかった。今日の朝、ようやく固めの便が出たのである。こんなの書いてる時点で皆様はわかりきっていたはずである。でも書かずにはいられなかったのである。便がボトンと水に落ちる音、あの重厚な響きがこれほど美しいとは! わかっていただけるであろうか。いやわかっていただけなくてもよい。僕は今日、また音楽の真実味に一歩近づいたのだ。健康な便は音楽である。人生またこれ音楽である。つまり健康な便は人生なのである。哲学の先達を一夜にして追い抜いてしまった自分の発見に興奮を禁じえない。エウレカ! と叫んだ彼は風呂の中で便をした時に溢れた水を見て何かの法則を発見したのであったか。人は繋がっている。