恋の予想天気図

規模がでかい台風ほど関東に上陸するかしないかのところで進路を変更して太平洋に抜けていくような気がする――と昔ここに書いた記憶がある。図体がでかい奴にかぎって、実はシャイなナイスのボーイだった。そんなラブ・コメディのキャラクター造形と似た印象を僕は台風に抱いていた。彼は関東に何度も何度もアタックしようとする。夏はTUBEが司る恋の季節だし、秋はTUBEの余韻が司る恋の季節なので、意外と夢見がちな台風は、ゲンをかついで夏と秋だけ、恋する自分をそのまま関東にぶつけてみようとする。体当たりの恋だ。台風も関東も食パンは咥えられないけれど、とりあえずぶつかればなんとかなるのではないか。恋が始まるのではないか。台風は思う。しかし彼はシャイなナイーブのボーイなので、いつも寸前で怖気づいてしまう。関東とぶつかって、彼女がドタマから血ィ流してしまったら恋どころではなくなる。「故意じゃないんです!」と法廷で証言をしなければいけなくなる。マイナスの考えばかりがぐるぐると渦を巻いて、イヤーな汗が出たり鼻息が荒くなったりする。これでは例え関東子がドタマ血ィを回避できたとしても、気持ち悪がられてしまう。ダメだ、ダメだ、俺はダメな男だ。台風は太平洋へ逃げていく。
今回もそうなるだろう、と僕は思っていた。気象予報士が何を言ったって、関東子を目の前にすれば台風は逃げる。なにしろ彼はシャイなセンシティブのボーイなのだ。関東子が「あなたのこと嫌い」と言ったわけでもなく、拒絶を態度で示したわけでもないのに、独りで勝手に結論づけて尻込みしてしまう。「こんなヘクトパスカルじゃ、絶対に無理だ」と思い込んでしまう。僕はそんな台風をただ見守っていた。彼が自分で気づかなければいけない。だから僕は台風が関東に上陸するだろうと言われていたその日、外出した。無言の激励のつもりだった。どんなヘクトパスカルでもいいんだ。問題はヘクトパスカルじゃないんだ。君が関東のことをどう思っているか。それが重要なんだ。ミリバールだろうがヘクトパスカルだろうが、君は君だ。
雨は強くなったり弱くなったりを繰り返した。迷っているんだろうな、と僕は思った。進行速度も遅い。気持ちはわかる。僕も高校生の頃、エロティックな本を買おうとして、エロティックなお店に行き、エロティックに満ちたマガジン・ラックの前に立ったときに、君と同じような状態になった。心臓はデスメタルやジャズや武満徹など様々なリズムで僕を翻弄した。エロティックな雑誌を手にとってレジに向かおうとしても、足が思うように動いてくれなかった。本当にこのエロティックでいいのか。あっちのエロティックのほうがさらにエキサイティングなのではないのか。最後はチョコボール一粒ほどの小さな勇気が僕を前進させた。そのときに買ったものが素晴らしくエロティックだったか意気消沈ティックだったかは忘れてしまったが、大切なのは結果じゃない。一歩、踏み出すことなのだ。僕はあの時のエロティックなマガジンのことを思い出そうとした。やはり記憶の彼方だ。しかし、苦しくも甘く、くすぐったい胸の疼きは、あの頃感じたそのままに、すぐよみがえる。
急に風が強くなった。雨足も激しくなった。窓の外が見えない。窓に映る僕の姿も、ぼやけてよく見えない。笑っていただろうか? それとも? 僕は目を閉じた。台風は一歩を踏み出したのだ。関東子の気持ちを確かめるために。雨粒が窓を絶え間なく打つ。その音はまるで台風の緊張を丸写しにしたようだった。「ぼぼぼぼぼっぼぼぼぼぼぼくは、」「きききっききききききみのことが、」「すっすすすすすっすすすす――」
武蔵野線は現在、台風による強風のため運転を見合わせております。お急ぎのところ……』
車内アナウンスに台風の声が重なって、肝心な部分が聞こえなかった。台風は気持ちを伝えることができたのだろうか? そして関東子はどう応えたのだろうか? いいところを邪魔しやがって、とは思わなかった。結果がどうあれ、彼は一歩を踏み出したのだ。僕がエロティックな階段をのぼったのと同じように。それだけで十分じゃないか。彼はもう一人でやっていける。僕は目を開けた。武蔵野線の座席に腰掛けて三時間が経っていた。駅員がタクシーによる代行輸送の開始を告げていた。人々が一斉に走り出した。窓枠を叩く雨の音はますます大きくなっていた。それは喜びのダンスに合わせたリズムなのか、悲しみにくれる叫びなのか。どちらでもいい。どちらでもいいけれども、前者であったら、一緒に踊りたい。僕は立ち上がった。