夏の子どもはみなわらう


 夏を返り討ちにする。最高気温が35度を超えて真夏日になると気象予報士によって宣言された今日、僕は決意した。「アチー」だの「ダリー」だの「ヒトナツノセツナイオモイデウィズマイダーリン」だの、夏ごときに振り回される人間が多すぎる。なぜこうなってしまったのか。夏がそんなに特別か。ただ気温があがって世の女性が薄着になってブラ・ジャーの紐が淡く透けて見えて僕の珍宝がしばしば肥大硬化するだけの季節ではないか。恥ずかしくないのか。夏のあの顔を見よ。さあ夏様が貴様ら愚民のために来てやったぞ、さあ騒げ、遊べ、嬉しいんだろ、さあ、さあ。そんなふうに我々人間をあざけっている。笑っている。日本列島を覆う晴れマークがにやにやしている。腹が立たないか。僕は心の底から腹が立つ。珍宝も立つ。我慢ならない。だから僕は決めたのだ。夏を倒す、と。


 さて、あやつを完膚なきまで叩きのめすにはどうすればいいか。腕を組み、うーむと考えようとしてはたと気づいた。軟弱者は「夏」と聞けばすぐさま計画を立てようとする。あれやこれやと夏に関連するイベントを紙に書き出したりして、ああんもぉう、なつやすみみじかすぎてなぁんもできなぁいshitぉ、などと楽しそうに顔面の筋肉を緩ませる。シットなのはこっちのほうだ。夏休みのドリルを破り捨てモノホンのドリルを手にし海の家という家をがれきの山にするくらいの気概をもつ人間はいないのか。夏の象徴であるラジオ体操を根本から作曲し直してラジオ体操ソサエティを震撼させるくらいの野心を抱くものはいないのか。背すじを伸ばして屁こきの運動くらいしてみやがれ。我々はママンという名のパナマ運河を経て人生という名の大海原へ飛び出した、生まれながらの一級航海士なのだ。夏の化身とも言える海を知りつくしている。海なにするものぞ! 僕らは――――


 何の話だったか。そうだ、計画だ。そんなもの僕は立てない。立つのは腹と珍宝だけでじゅうぶんだ。ノー・プラン。夏が何を仕掛けてこようと、そのつど臨機応変に美しく返り討ちにしてくれる。


 しかしこうして家の中で待っていては夏もやりにくかろう。正々堂々相手をしてやろうじゃないか。僕はサンダルをつっかけ外に出た。4.5歩ほどすすんだところで「SANDARU!」と叫んだ。日本語に訳すと「サンダル!」と叫んだ。実際の発音は「サンドゥー」に近いものであったがそれはそうとして叫んだ。サンダル。夏の権化。即座に玄関へ戻り革のブーツに履き替える。危ない。夏の攻撃はもう始まっている。一瞬の油断も許されない。頬をつたう冷や汗を僕はTシャツの袖でぬぐった。そして「TEESYATU!」とうめいた。Tシャツ。夏の下僕。ブーツのまま部屋へあがりクローゼットからPコートを取り出す。聞きしに勝る連続攻撃だ。人類が使役されるのもうなずける。


 Pコートをはおり、ボタンをとめ、カシミヤのマフラーを巻き、念のため毛糸の手袋をはめる。生身のままで夏に挑むのは危険だ。奴は強い。認めざるをえない。この格好でもまだ不安だ。ふわふわしたうさぎの毛があたたかな耳あてはどこだったか。そもそもそんなもの買った覚えがない。ええい、どうした僕、さっきまでの威勢はどこへいった。夏なんて分解してみれば「一」に「自」に「もにょっとしたなにか」だ。恐れるな。飛び出せ!


「おはよう、ってなにそのかっこ」


 僕は固まった。このやわらかな声の主はアパートのお隣さんである。ちょうど家を出るところだったらしい。二回言うが僕は固まった。それもそのはずだ、彼女はうすい水色のキャミソールに身を包んでいたからだ。三回目になっても仕方がないが僕は固まった。ただでさえ魅力的な白く細い腕が夏の光につつまれて、女性の体温を身近に感じさせた。とにかく僕は固まった。正確に言えば僕の珍宝が固まった。


「ガマン大会? こんな暑い日によくやるね。おっかしい」


 そうさこれから熱々の鍋焼きうどんを買ってサウナん中でそれを手づかみで食らったり頭からかぶってやったりするのさ寒くて凍えそうなんでね、と言おうとしたが舌は回らずにマ、マアネなどと不安定な日本語を発してしまう。僕はこの人が苦手だ。顔を見ると必ず珍宝を始めとして身体が固まってしまうし、うまくしゃべることもできなくなってしまう。ナ、ナナナツクォさんは。彼女の名前をまともに呼ぶことすらままならない。


「あたし? 友達に誘われてこれから海に行くの。いっぱい焼いてくるつもり。ある意味ガマン大会だね。負けないぞ」


 彼女は笑った。一流の写真家でも、名のある画家でも、世界的な映画監督でさえも捉えられない瞬間だった。僕は浴びた。彼女の笑顔を全身に浴びた。草原が見えた。ピンク色の花とか、黄色の花とか、すみれ色の花とか、すみれ色の花ってそりゃすみれだ、とにかく数え切れないほどの、小さく、あたたかな色を宿した花が咲き乱れる草原に僕はいた。彼女は手を振っていた。僕に向かってかどうかはわからない。しかし僕は手を振り返した。おうい、すみれ色のすみれが咲いてるぞ、こっちにおいでよ、と声をかけた。草花が風に揺れる中で僕はサンダルをはき、Tシャツを着ていた。かまわないと思った。夏よ、君は強い。「一」と「自」と「もにょっとしたなにか」などとあなどっていた僕の完敗だ。曖昧じゃ駄目なのだ。はっきりさせる必要がある。「もにょっとしたなにか」が何なのか、僕にはまだわからない。でも掴みかけているような予感はある。それをこの手にしっかりと握りしめることができたとき、お前に今度こそ勝てる気がするんだ。だからもうちょっとだけ待ってほしい。夏よ、もう少しだけ。