タイニー・ボート


 いつか必ず僕も経験できるはずだ、そう思い始めてはや十年、未だにデートをしたことがない。そもそもデートとはなんぞや。おぼろげにイメージはできるけれども、やはり未体験ゾーン、はっきりとしたデートの形はわからない。燕雀いずくんぞデートの志を知らんや。知ってる。燕も雀もデートを知ってる。庭先でチュチュチュンチュンと可愛らしくじゃれあうつがいの雀をよく見かけるが、あれはデートなのだろう。僕もその微笑ましい光景に混ざってデートを体験してみようと思い、まずボール紙を切ってクチバシを作り、穴をあけ輪ゴムを通し、できあがった模造クチバシを耳に引っかけて雀に擬態してみたら輪ゴムがこめかみの髪の毛に引っかかって殊に痛かったのでぎゃあぎゃあ騒いだりしてるあいだに雀はどこかへ行ってしまっていた。遠くのほうから楽しげな雀の鳴き声が聞こえる。うまい話なんてあったもんじゃねえな、と僕は呟いた。

 このままではいけないのである。デートの何たるかを知らないまま年をとってしまったら、いざデートに臨まん、という場面でしどろもどろること間違いない。気づいたらデートに巻き込まれていてこりゃヤバイ、心の準備ができてない、ガスの元栓も閉めてない、響き渡る消防車のサイレン、もしかしたらあれは僕の家に向かっているのではなかろうか、などと、やはりしどろもどってしまう。男たるもの堂々としていなければならない。胸を張り、背すじを伸ばし、顔をひっぱたき、塩を撒いて、待ったなし、はっけよい、デート。このくらいの心構えが必要なのだ。

 事前にシミュレーションをすればいい、デートせずに歳を重ねてはや十年、僕はそう結論した。未体験ならば、体験してしまえばいいのだ。簡単な理屈である。案ずるより産むが易し。さっそく僕はデートをしてみようとした。その辺を歩いているカップルを尾行し、彼らがどのようなデーティングをしているのか、見る。見て、自分も追体験する。完璧だ。隙のない作戦だ。さっそくサンダルをつっかけ、街へ出る。歩く。人々の視線が気になる。模造クチバシを装着したままだ。僕は焦ってクチバシを外そうとした。輪ゴムが髪の毛に絡んだ。激痛が走った。激痛を紛らわすために走った。叫びながら走った。それくらい痛かった。自転車に跳ねられそうになった。三輪車に轢かれそうになった。犬に吠えられた。ただ闇雲に走った。行きついた先は、公園だった。


「パーク。」


 僕は意味ありげに大して意味のない言葉を発した。乱れた息を整える。若い男女がそこかしこに歩いているのが見える。腕を組んでいるものがあれば、手を繋いでいるものもあり、指相撲しているものもあるし、むしろ相撲をとっているものもある。僕は確信した。ここが、あの、デート・スポットと呼ばれる場所なのだ。D・スポット。そのあまりにいやらしい響きから敬遠していたD・スポットに、いつの間にかたどり着いてしまうとは。もう後戻りできない。ここまでどうやって着たのかわからないから実際後戻りできない。覚悟を決めて、D・スポットに身を任せるのみだ。

 ある一組のカップルの女性のほうが、「あれ、乗ろ、乗ろ乗ろ」などとキャンキャン声で、ボート乗り場を指差した。公園内にあるちょっとした池に浮かべるボートを貸してくれるらしい。よし、と僕は思った。ボートに乗るのがデートなのだろう。語感も似ている。乗らない手はない。僕はカップルのあとについていった。カップルは手を繋いでいた。僕も誰かと手を繋いだほうがいいのだろうか。しかし相手がいない。ちょうどいいところにコンビニのビニール袋が落ちていたので、僕はそれを拾い上げ、優しく手を繋いでみた。なんとなくいい感じだ。地球にも優しい。

 ボート乗り場の詰め所にいたのは茶色い帽子をかぶったおじいさんだった。真っ白な髭が、まるでビニール袋みたいに顔の下部分を覆っている。はい、行ってらっしゃい、そう言って例のカップルを笑顔で送り出した彼は、順番を待つ僕を目にした瞬間、露骨に表情を曇らせた。


「ボートに、乗るのかい」とおじいさんは言った。

「乗らせてください」と僕は言った。


 彼は皺と目の境界線がわからなくなるくらい目を細めて、続けた。


「一人で、乗るのかい」

「一人じゃ駄目ですか」

「や、やや、駄目ってことはないがね」

「じゃあ乗らせてください」

「そのビニール袋は何かね」

「地球に優しい恋人です」

「優しいのかね」

「ええ、とても」


 おじいさんは溜息をつき、髭を撫でた。よく手入れされた髭だった。書初めができそうだ。


「お若い人、一人じゃつまらくないかね」

「デートの体験ツアー中なので、一人でいいんですよ」


 僕は彼に、自分がデートをしたことがなく、本番のデート時にしどろもどらぬよう、予行練習をしている途中なのだ、と告げた。おじいさんは驚いたようだった。三十年間貸しボート屋をやってきたが、お前さんのような人間は初めてだ、と言った。


「わかった、存分に乗りなさい。一時間七百円」

「金を取るんですか?」

「当たり前じゃろう。こっちだって商売なんじゃ」

「こっちだってデートなんだ」


 僕はおじいさんに百円硬貨を七枚手渡した。彼は僕にオールを貸してくれた。これでボートを漕ぐのだ。デート、ボート、オール。なんとなく語感が似ている。さすがD・スポットだ。この語感理論でいくと、おそらくボールを使ったデートもあるに違いない。夢が広がる。オールを振り回しながら浮き足立つ僕を見るおじいさんの表情は、さっきとはうってかわって、柔らかだった。さすがにオールがおじいさんの顔面に直撃したときは怒髭天を衝きかけたが、基本的には柔らかだ。


「お若いの、二人で乗れば割り勘で済むぞい」

「ビニール袋も勘定に入れていいんですか?」


 おじいさんは首を振った。鼻血が少量出ていて、遠心力で少々広がった。


「わしがデエトの予行演習に付き合ってやろう、と言ってるんじゃよ」

「えっ」

「お前さんを見てると、わしの若い頃を思い出すんじゃ。放っておけん」

「おじいさん……」


 まず僕が先にボートへ飛び乗った。着地の衝撃でボートが揺れた。なんとかバランスを取る。おじいさんは笑っている。「だぁいじょぉぶぅ? キャハ」と笑っている。デートっぽい。素晴らしくデートっぽい。俄然テンションがあがる。おじいさんに手を差し伸べる。さ、ゆっくり、怖くないから。女性役のおじいさんは内股でボートへ崩れこむようにして乗り込んだ。「きゃん」とか言う。デートっぽい。なかんずくデートっぽい。向き合って座る。膝と膝が触れ合う。視線が交差する。


「ちょっと、小さいね、このボート。窮屈だ」と僕は言った。

「小さいボートのほうがいい、って思える日がいつかくるわよ」とおじいさんは言った。


TURN BACK
「tiny boat」 from 『TURN BACK』
the pillows' self cover album.