『武装錬金』最終回を読んで

武装錬金』の連載が終了しました。不思議なことに、それほど大きな喪失感はありません。「再殺編」におけるストーリー面でのグダグダ具合を考えれば、こうなるのは予測できないことではありませんでしたし、先週既に取り乱し済みってのもありますし、何より完結編が赤マルジャンプに掲載されるってことで、まだ終わってないのですから、喪失もクソもないわけです。しかし近い将来、「失う」ことは確実です。決定している。もちろん『武装錬金』という作品自体はなくなったりしませんけれども、この漫画の「生命力」というんですか、我々読者を興奮させてくれるような生きた力は、失われはしないかもしれませんが、多少損なわれるのは避けられないでしょう。そのときのことを考えると、うーむ。「完結編が楽しみじゃないのか」と怒られそう。もちろん楽しみではあるのですけど、無邪気には喜べませんね。どうあがいても不完全であることが目に見えてますから。うーむ。


ものすごく唐突に大岡昇平の『野火』から引用します。

しかし私がそれを見て、何か衝撃を受けたと書けば、誇張になる。人間はどんな異常の状況でも、受け容れることが出来るものである。この際彼とその状況の間には、一種のよそよそしさが挿まって、情念が無益に掻き立てられるのを防ぐ。
私の運の導くところに、これがあったことを、私は少しも驚かなかった。これと一緒に生きていくことを、私は少しも怖れなかった。神がいた。
ただ私の体が変らなければならなかった。

『野火』の語り部である“私”と、我々『武装錬金』読者の間には、どこか通じるものがあるように思えます。大げさですね。ええ、大げさです。でも今日は大げさであるべき日なのです。約束された「死」へ向かい歩き続ける“私”に救いはなく、終わりが待っているだけ。しかし“私”は、生を諦めているのに、光がさっと差し込むたび、それにすがりつこうとする。光は消え、絶望と対面する。「死」と「打ち切り」は、秤にかけて比べられるようなものでは当然ありませんけれども、概念としては同類であると言ってよいでしょう。常に打ち切りの恐怖に怯えながらページを繰り、掲載順があがっては喜び、ビリになればおののき、もうこの作品の寿命は長くないだろうな、とわかっているのに、心のどこか奥底では安心していて、「最終回」の報をつきつけられる。細かいとこは抜きにして、なんとなく、似てませんか? そしてどん底にぶち落とされた後はというと、“私”には感情の揺らぎがあまり生じておらず(引用部分から)、一方、これは僕に限った話かもしれませんが、読者側も、喪失感などを特に抱いたりはしない。この点も一致します。週刊少年誌掲載のマイナー漫画支持者の視点から『野火』を捉えると、小説の緊張感はそりゃ台無しですけど(笑)、なかなか新鮮で面白いかもしれません。『野火』の主人公は最後の最後で「光」を見ますが、いったい僕は最後に何を見るんでしょうね。わかりません。まだ終わってないのだから。

人は死ねば意識がなくなると思っている。それは間違いだ。死んでもすべては無にはならない。それを彼等にいわねばならぬ。叫ぶ。
「生きてるぞ」
しかし声は私の耳にすら届かない。声はなくとも、死者は生きている。個人の死というものはない。死は普遍的な事件である。死んだ後も、我々はいつも目覚めていねばならぬ。日々に決断しなければならぬ。これを全人類に知らさねばならぬ。しかしもう遅い。*1


最終回の感想は、また別で書きます。

*1:『野火』三九章「死者の書」より抜粋