恋のスパイに気をつけろ!


 洗い物をしていたらくしゃみが出そうで出ない状態に陥った。こういった場合、十中八九、「ぴゅうと風が吹いて女子高生のスカートがめくれたけどまあそりゃパンティーじゃなくてブルマーだよね、そりゃそうだよね、自己防衛だよね、自己責任だよね」と、まあ期待するだけ無駄な感じになるわけで、僕は当然くしゃみは出ないものとして洗い物を続けようとしたのだけど、今日は少しだけいつもと勝手が違うみたいでものすごい勢いのくしゃみがものすごい勢いで放たれてものすごく手が滑ってものすごい勢いで茶碗が割れた。

 不意の事故で茶碗を割ってしまったとき、人はどういう叫び声をあげるのだろう。僕は人が茶碗を割ってしまった場面に遭遇した経験がないのではっきりとしたことは言えないが、おそらく「キャ!」だったり「うわ!」だったり「茶碗が!」だったり、その辺の差しさわりのない台詞を選択するのだと思う。僕の場合は「花子!」だった。別に気が狂ったわけではない。花子という名の茶碗が割れたのだから、「花子!」と叫ぶのは自然極まりないことだ。もっとも事実に沿って書き記すならば、「花子!」などという淡白なシャウトではなく「ンはぁぁぁぁなアこぅおぅおォォォォ!」と感情のほとばしりここに極まる状態だったのだが、とにかく僕は「ンはぁぁぁぁなアこぅおぅおォォォォ!」と叫んだ。花子は真っ二つになって流しの隅っこに横たわっていた。あまりの惨状に、僕は台所用洗剤の泡にまみれた手で顔を覆った。泡が眼球に侵入した。僕はシャンプーハットをかぶりながら洗い物をしなかったことを心の底から後悔しつつ痛みのあまり気を失った。

 目を覚ます。ぱちくりとまばたきをする。眼球に残った洗剤の粒子がほどよくシェイクされ激痛が走り再度倒れそうになる。だがそこをなんとかこらえて立ち上がり、流しを見る。花子はやはり割れている。これが夢だったらいいのに、と思う。花子は、僕の、たった一人の味方だった。「おかえり」と言う相手もいない僕を、流し台で静かに見つめてくれていたのは彼女だった。食費のやりくりに失敗しておかずを買えなかった僕を、ちゃぶ台の上でで優しく見守ってくれたのも彼女だった。茶碗に口をつけてお茶漬けをずるずるとかっ込んだのが、思えば僕の初めての大人のキスだった。舌が焼けるほど熱いキスだった。花子。君はもういない。

 ひとしきり悲しみにくれると、今度は怒りで目が赤くなってきた。花子は死んだ。なぜ死んだ? 全て出そうで出ないと見せかけて出たくしゃみが悪い。なぜくしゃみが出た? 誰かが僕の噂話をしたからだ。誰が僕の噂話をした? いったい誰が僕と花子の愛を引き裂こうとしたのだ?

 誰か、いる。誰かが、僕を見張っている。僕と花子の仲を良しとしない誰かが。さっと振り向く。壁。もう一度振り向く。台所。目だけをぐるりと動かして周囲に注意を払う。どこかで誰かが僕の噂話をしてくしゃみを誘発し花子を殺したのだ。僕は流しっぱなしになっていた蛇口の水を止めた。水滴が流し台を控えめに叩く音と僕の呼吸音以外、何も聞こえなくなる。

 目を閉じ、開く。閉じ、また開く。来るなら、来い。花子の恨み、ここぞとばかりに晴らしてやる。それとも、僕の前に姿を現せないというのか。スパイ気取りか、臆病ものめ。尿。尿? 僕は何を考えているのだ。今は花子のカタキを打つことだけを考えろ。息を吸い、吐く。吸い、吸い、吐く。ラマーズ法だ。怖いものなんてない。強いて言えば尿が怖い。尿? 頭を振る。雑念を捨てろ! 流しで真っ二つになってしまった花子のことを忘れたのか。僕のことを愛してくれた花子にあのような酷い仕打ち、許せない。そう、許せないんだ。許せないはずだろう? だから今こうやってくしゃみが出そうで出ない状態に陥りながら敵が現れるのをじっと待っているのだ。くしゃみ? また奴が僕の噂話をしているのか? はは、甘い。子供の手口だ。ふむ、確かに先ほどお前は僕の噂話をすることで僕にくしゃみをさせることに成功した。だがそんな単純なやり方で何回も上手くいくと思ったら大間違いだ。今ここで尿を盛大に放出するのと同じくらい間違っている。だから尿はいい、とにかくだ、くしゃみが出そうで出ないようだけどやっぱり出た、なんてそうそうあるもんじゃない、一生に一度、いや、人類の長い歴史を紐解いたとしても片手で数えられるくらいしか実例はないだろう、それを続けて起こそうだなんて幼稚も幼稚、浅はかすぎて笑いすらこぼれてくる。僕は笑った。大声で笑った。声帯を震わせて出てきた笑い声が再び声帯を震わせるくらいの大声だ。そしてその笑いが頂点に達したかと思った瞬間ぶるっと全身が震えてものすごい勢いのくしゃみがものすごい勢いで放たれてものすごい勢いで僕は失禁した。


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「恋のスパイに気をつけろ!」 from 『KOOL SPICE』
the pillows' 5th album.