「銀河」

「まよなか」

彼女は雑誌を読みながら唐突につぶやいた。正確にはわからないけれど、遅めの夕飯を食べ、クラシック音楽をバックにヨーロッパの街並みが淡々と画面に流れるテレビ番組を見たあと、やることがなくなってしまいなんとなく二人して本を読み始めてから、おそらく一時間は経っている。この曲、聴いたことあるな。なんて曲だっけ。新世界より、でしょ。ドビュッシー。その会話を最後に、言葉を交わしていない。テレビから流れる音楽は「新世界より」ではなかったし(それくらいは僕にもわかる)、そもそも「新世界より」の作曲者はドヴォルザークだったような気がしたけれど、あえて訂正はしなかった。テレビのチャンネル権を握っている彼女が、普段好んで視聴する深夜のお笑い番組ではなく、電源を入れて最初に映ったものをそのまま流しっぱなしにしていたのだ。なにかあった? そう無遠慮にたずねるのも気がひける。だいたい、彼女がさっきから読んでいるのは、僕がひまつぶしに買ってきたクロスワード・パズルの問題集ではないか。パズルを読んでどうする。心ここにあらずといった感じだ。

「マーヨーナーカー」

妙な音程をつけて、まるで歌っているように彼女は声を発する。二人用には少し大きいダイニング・テーブルをはさんで向い合っている僕と彼女。これは何だろう。真夜中。確かにそうだ。カーテンに阻まれて見えないが、おそらく外は非常に暗い。蛍光灯から聞こえるジーという音が、やけにはっきりと部屋に響く。これに加えて掛け時計の秒針が控えめにリズムを刻んでいれば言うことなしだが、掛け時計はない。静かだ。真夜中。まちがいない。彼女はしかめ面で頭をぼりぼりとかいた。同時に下唇をうにうにと動かしている。オーケー、と僕は思った。読んでいた漫画を閉じる。ロックスターを夢見る高校生男子の主人公が、初めて入った楽器屋でギターと間違えて三味線を買ってしまう、という目が離せない展開であったけれど仕方ない。「なんだこのGuitar、弦が三本しかねえぜぇ!」家に帰って驚く主人公の顔といったら! “ギター”の発音だけが異様に流暢だというのも笑える。三味線を普通に売っている楽器屋ってのもなかなか――待て、漫画の見どころはいま考察すべきじゃない。オゥケイ、と僕は流暢に、再び思った。ゆっくりと立ちあがる。ズ、ズと椅子の足とじゅうだんがこすれる音。部屋に視線を巡らせる。テレビ、タンス、黒いソファ、部屋干しされた洗濯物、食器棚、そして台所。僕は流しの水切りかごから、しゃもじを手にとった。プラスチック製の、白い、ごく普通のしゃもじ。細い部分を上にして、鼻の下にあてがう。いける。

「ハナミズボーン!」僕はウエスト・サイド・ストーリーのダンサーのように足をあげた。

ぎゃははは、ヤベーよオメーそれウォーイ。外から若者たちの笑い声が届く。でもそれはもちろん、僕の、この、渾身の一発ギャグに対しての笑いではない。ギャハハ、ヒョッホ、ヒィーハァーィーァー……声は遠ざかっていく。僕はいまだに鼻水ジェット団のままだ。彼女は顔をあげ、僕の姿を見た。確かに目が合った。しかしすぐにまた視線を解きもしないパズルに戻す。僕は膝をついた。駄目だったのだ。てっきり、彼女は笑いを求めているのだと、退屈な日常に辟易して、なにか面白いことを体験したいのではないかと思ったのに、それは違っていた。人は誰でも、一生にひとつ、大爆笑のギャグを作れるという格言がある。僕にとって鼻水サイドストーリーはまさにそれだったのだ。ギャグに不足はない。断言できる。突然すぎてうまく伝わらなかったのかもしれない。よし、次は「ハナミズ」で間をおいて、「ボーン」でしゃもじを鼻にぶっ刺してやる。深呼吸。タイミングをはかる。ヒッヒッ、フー、ヒッヒッ、行く!

「ハナミズゥ、ボギャー!」僕はウエスト・サイド・ストーリーのダンサーのように足をあげて激痛に悶えた。そしてそのままひっくり返った。

雑誌のページをめくる音。彼女は笑わない。やはり間違っていた。彼女は面白い出来事を待っていたのではなかった。無念だ。しゃもじを引っこ抜く。「ヒョッ」と声が出てしまう。涙がじわりとにじんできた。痛みもあるが、それだけではない。彼女が何を僕に期待していたのかわからず、応えることのできない自分が情けない。

「なにか面白いことないかしら」彼女は雑誌を閉じて言った。
「うおうい!」僕はひっくり上がった。かなりの勢いで起きあがった、という意味だ。

「さっきからうるさいなあ。近所迷惑でしょ」
「き、近所めめめめ」迷惑だと。僕のブロードウェイが。怒った。僕だって言うときは言う。わからせてやる。
「急にわかんなくなっちゃったの」

僕はしゃもじを彼女の鼻先に突きつけようとした予備動作のまま固まった。声が。彼女の声が、まるでこの部屋にはない掛け時計のチクタクみたいに、ただ、音として真夜中の空気を揺らしたからだ。それきり彼女は何も言わない。なぜ「急にわかんなくなっちゃった」のか、何が「わかんなくなっちゃった」のか、そして僕にどうしてほしいのか。テーブルの上に力なく置かれた彼女の手を見る。手入れされた爪が蛍光灯の光を反射する。僕の顔すら覗けそうなほどに美しく輝く爪だ。指は震えてはいない。こわばってもいない。うつむく彼女の表情は、垂れた髪の毛に隠れて見えない。しかし彼女の両手が僕のいる方向に向けられていることだけは確かだ。
そっと彼女の手をとる。そして僕の鼻の穴の内容物が若干付着したしゃもじを握らせる。彼女は眉根にしわをよせて「ハァ?」と言った。そんな顔をするんじゃない。せっかくの可愛らしい顔面の魅力が半減だ。覚えているかい、付き合いだしたころのこと。二人で夜の街を歩きまわって、ときに走って、笑い合ったこと。君は「そんなん覚えてない」と言うかもしれない。まあ実際あったかどうかあまり自信がない。でも、二人いるだけで、楽しかった。星の数が増えたかのように、夜がかがやきだして見えた。それは今も変わらないはずなのだ。

「行こう」

僕は駆け出した。「えっ、ちょっと待ってよ」彼女の声がうしろから耳に飛び込む。待ってあげない。追いかけてきなさい。飽きるまで追いかけっこをしよう。疲れたらどこかの公園でベンチに座って話をしよう。童心にかえってブランコをこぎながらでもいい。すべり台に登るのもいいな。そして星空を見る。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、両手で数えきれてしまうくらいの、二人の銀河。靴に足をつっこむ。ちゃんと履いてなんかいられない。鍵を開ける。勢いよくドアを開ける。チェーンがつけっぱなしになっている。ドアは中途半端に止まる。スピードにのった僕は顔面をもろにぶつける。彼女の笑い声が聞こえる。