ショートホープを口にくわえて

全身鏡には格好いい男が映っている。細身だ。無駄な贅肉がない。かといって、痩せているわけでもない。筋肉はつくべきところにつくべき量が、一流ホテルの調度みたいにきちんと備わっている。両手を腰におき、堂々たるポーズだ。ポーズというよりポオズと表記したほうが、より実情に沿っているかもしれない。アーティスティックと言ってもいい出で立ちだ。フ、と一息ついてから、ゆっくりと両手をあげてバンザイの姿勢をとる。そして「ハッ!」。クロス。両手をクロス。胸の前でクロス。指は十本、ピシイと伸ばす。ついでに足も交差する。ルネッサンス期の彫刻家がもし目の前にいたら、アワワワワと泡を吹き出さんばかりに衝撃をうけて我先にとノミを手に大理石を彫り始めてしまいそうなほど一分の隙もない。存在が芸術。それは誰か。僕だ。鏡の前でフとかハとか言っている僕だ。朝起きて、何よりも先に僕は僕の姿を見る。パジャマを脱いで見る。パジャマ脱いだらもうパンツも脱ぐ。全裸で鏡の前に立つ。格好よさを再確認する。日課だ。友達との待ち合わせの時間はとうに過ぎていて、携帯電話にはその友達からの着信がいくつも残っているけれども日課だ。欠かすわけにはいかない。控えめに頭を見せる下半身の卑猥な部分も、僕から生えていれば汚らわしい存在ではない。ギリシャ彫刻を見て誰も「イヤー!」とか「キャ!」とか言わないように、僕の珍宝はただ、そこにあるべくしてある。

「あるべくしてあるじゃねーよ馬鹿か」

友人は長く伸びた人差し指の爪でとりあえず僕のまぶたを突いた。待ち合わせ場所として有名な犬の像の前で僕は痛みにもんどりうった。ごめんを言う余裕もない。「そこにあるべくしてある。というわけで遅れてごめん」と謝罪するつもりだったのに、せっかちすぎる。たかだが1時間32分遅れたくらいで、爪をまぶたに刺すか。僕なら刺さない。サッと髪をかきあげ、歯をしこたま光らせてから、「駄目じゃないか、1時間32分も待ち合わせに遅れたら」と言って指を目ん玉にぶっ刺すくらいですませてやる。あ、刺すなこりゃ。友人の怒り具合がわかったところでまぶたの痛みがひいてきた。立ち上がろうとしたら今度は頭頂部にチョップ。これはたまらない。起き上がろうとする僕の下から上への力、振り下ろされるチョップの上から下への力。素晴らしいタイミングだ。僕は顔面から地面に激突した。これにはさすがに他の待ち合わせビトたちも何事かと騒ぎ始める。注目を集めることには慣れている。なにせ僕は格好いい人間だ。しかしコンクリートとキスをしている状態で人目にさらされるのは本意ではない。どうにかしてスマートに、スマアトにスタンドアップしなければいけない。うつ伏せの状態からトレンディに二足歩行へ移行する。簡単ではない。しかし不可能を可能にするのが僕が格好いい人間たる所以だ。「不」なんて文字、消しゴムか修正ペンを使えば簡単に消せる。じつにあっけないものだ。今年のベストセラーは僕著の『不のない辞書』だオボ!

「どうせまた鏡の前で気持ちわりいことして時間食ったんだろうが。しかも寝坊。馬鹿かお前は。何度目だこの野郎」

友人という名の「不」が僕の背中にどさっと座り込んできて僕は完全に身動きが取れなくなった。何度目かって、今月入って五度目の待ち合わせで五度目の遅刻だ。ちょうど五で因数分解できる。僕らしい美しさに満ちた失態だ。待ち合わせビトの様子に目をやると、これは触れてはいけない類のものだ、と視線をそらす人、わあ面白い、と財布からおひねりをひねり出そうとする人。僕自身が歩くパフォーマンスのような存在だから、そういった反応は当然だ。世の中には美しいものから目をそむけるか、それとも金を払って手に入れようとするか、どちらか二種類の人間しかいない。フッ、と誰にも見えない微笑を浮かべてから、日頃から鍛えた筋肉を駆使して友人の圧力から抜け出す。彼は「おっと」とバランスを崩しかけたが、横に転がった僕にさらなるニー・ドロップを仕掛けるような真似はしなかった。

友人はロックスターを夢見る男である。バンドでの練習がない日でも、いつも黒いギターケースを背負っている。髪は伸びっぱなしでぼさぼさだ。ファッションにも気を使っている様子はない。しわくちゃのシャツにだぶだぶのズボン。ついさっき僕のまぶたに突き刺さったように、爪も切らずに伸ばしている。つまりスマアトでスタイリッシュで格好いい僕とは正反対に位置する人間といえよう。隙あらば煙草に火をつけてぷかぷかふかす。今も一本、口にくわえている。しかし最低限のモラルは持ち合わせているようで、人が多いところや、条例で禁止されている場所では火をつけたりはしない。彼の煙草の銘柄はなんていったっけ。僕は吸わないので、そういった名前には詳しくない。「太く短く、ってのがいいんだよ」と彼がその煙草について語っていたのは覚えている。珍宝と同じだね、と僕が返したら燃やされかけたのも覚えている。無事二足歩行人間となった僕に、彼は煙草をくわえたまま、もごもごした発音で言った。

「お前何丁目に住んでんだっけ」

思わず「ハァ?」と間抜け面をさらしてしまいそうになった。いきなり何事か。会話に文脈がない。待ち合わせに遅れた。まぶた刺された。馬鹿かお前は。何丁目に住んでんだっけ。ハァ? 結局披露してしまう。住んでいるのは四丁目だけれど。丁目。僕の丁目と今の状況と何の関係がある。

「だから何丁目に住んでんだ、って訊いてんだよ」
「それは、あの? うん、四丁目、だけど?」

間抜け面を悟られないよう、首を絶妙な力加減で振り、熟練のウェイターがテーブルクロスをかけた瞬間にファサアとなる、あのさりげない感じで髪を揺らした。彼はそんな僕の一連の動作を見ていなかったようで、やけに大きな咳払いをした。もし見ていたならうっとりするはずである。

「四丁目か。じゃあさお前、百歩譲ってさ、四丁目では一番カッコいい男だとしよう。四丁目ではトップのベイビーだ。でも三丁目に目を向けてみな」

僕は僕が住む街の三丁目があるであろう方向に目を向けてみた。ビルが見えた。

「三丁目にはもっとカッコいいやつがいる。二丁目にだっている。もちろん一丁目にも。んで全国には腐るほどの丁があるんだよ」

腐るほどの丁。それほど長くはないけれども、これまで生きてきた人生で初めて耳にした言葉だ。ア・ロット・オブ・ロトゥン・丁。

「何が言いたいのさ」
「KAWAZU!」

「太く短い」煙草が彼の口からこぼれて落ちた。彼が大きな声を出すのは非常に珍しいことだった。いつもぼそぼそと喋るか煙草をふかしているかどっちかだった。チャリン、と十円玉が地面に跳ねる音がした。見世物じゃない。それくらい僕にはわかる。彼は本気で何かを僕に伝えようとしている。格好いい僕が、なぜ彼のようなだらしのない見た目の男と友達なのか。彼は格好いい僕を遠目から見てうっとりするのではなく、いつもこうして僕に聞こえるように声を投げかけてくれるからなのだ。そんな人は彼以外にはいなかった。
「KAWAZU!」と言ったきり彼は黙ってしまった。くしゃくしゃの髪をさらにぐしゃぐしゃにしながら、胸ポケットから煙草を取り出し、口にくわえて火をつけた。条例なんておかまいなしだ。蛙。僕はうつむいて字面を思い浮かべてみた。格好いい字とは、お世辞にも言えない。僕は蛙なのか。スマアトではないのか。微笑を浮かべようとする。しかし顔がうまく動かない。両手を胸の前でクロスさせようとする。無理だ。身体が固まってしまっている。

「四丁目のベイビー、っていい響きだな」

煙を顔に吹きかけられて、僕はようやく顔をあげることができた。

「お前『四丁目のベイビー』って曲歌えよ。俺が作るから。クネクネしながら踊ってさ」
「クネクネ?」
「いつもやってんだろ、鏡の前で」

こんな感じかしら、と僕は全身鏡の前でつややかな脇毛を見せびらかすときのポオズをとった。彼はブっと吹き出した。

「それだそれ。カッコいいじゃん」
「『三丁目のベイビー』より売れるかな」
「どうだろうな」

彼は携帯灰皿に煙草を捨て、今日の目的地に向かって歩き出した。その長い爪で、どうやってギターを弾くのだろう、と僕は思った。ロックスターに爪の長さなんて関係ないんだよ、と彼は笑うだろうけど。