膨張する未来と正しい円周率の求め方、あるいは牛乳ビンの蓋

玄関先で朝刊を開き社会面の訃報欄を情感たっぷりに音読していると、自転車に乗った男がベルをちりんちりんと鳴らしながらゆっくり近づいてきて僕のすぐ横に停まった。すぐ横というのは誇張じゃなく本当にすぐ横で、すぐ横すぎて彼の鼻の穴の中の毛の枝毛まで垣間見えそうなほど近く、当然あまりの近さに僕は戸惑いを覚えたわけだけど、日課である訃報欄音読を途中でやめるわけにもいかないので、男のことはつとめて気にせず僕はどこぞのジャズ歌手胃がんで亡くなった事実を滔々と音読し続けた。「ジョン・鈴木74歳(じょん・すずき=ジャズ歌手、日本鈴木振興会副会長)13日未明、胃がんのため死去。お別れ会は14日午後1時半、○×県△市の鈴木振興会館。自宅は非公開。喪主は妻ジョン子(じょんこ)さん。ヒット曲に『盲腸と呼ばないで』『正しい円周率の求め方』『だから盲腸って呼ぶな』『呼ぶなって言ってんだろ!』などがある」――かっこからかっことじる、イコールに至るまで余さず読む。僕は音楽方面には疎いので彼のことを知らなかったが、そのヒット曲のタイトルは僕の古い記憶をよみがえらせた。物憂げなトランペットの演奏に合わせて訥々と円周率を1342桁ほど歌い続ける唄。一時期ラジオで頻繁にかかっていたような気がする。ディスク・ジョッキーたちは苦笑もしくは嘲笑混じりでこの曲を紹介していたが、僕はなぜか、この途切れ途切れの円周率っぷりを気にいってしまい、カセット・テープに録音してまで繰り返し聴き、真似したものだ。さんて、ん、い、ちよんいちいごーきゅ、う……今でもすらすら暗唱できる。ジョン・鈴木。こんな名前だったのか。亡くなったのか。
「牛乳なんですけど」
突然声をかけられ驚きのけぞる。いや、突然というわけでもない、声をかけてきた男は先ほどから僕のすぐ横にいたのだ。物思いに耽っていたため存在を忘れていた。忘れていたのだから実際僕にとっては突然も同然で、とにかく驚きのけぞりそのまま後ろに倒れそうになった。男が僕の腕を掴み、ぐいっと起こす。危ないところだった。礼を言おうとした僕を、男は顔面を急接近させることで制止する。
「牛乳の配達です」
「牛乳?」状況が掴めないままおうむ返しに答える。
「朝の牛乳を届けにきました」
男の鼻の穴は綺麗な円形になっていて、まるで双子の新月みたいだった。
「でもウチは牛乳なんて取ってないよ」
男はシューと鼻で空気を吸い、スハと鼻から空気を出し、カバンから牛乳ビンを取り出し、またシューと吸い、スハと出し、牛乳瓶を僕の鼻先に突きつけた。
「取ってないかもしれませんけど、私は配達するのが仕事なので、受け取ってくださらないと困ります。お代はいただきませんのでご安心ください」
「え、タダなの?」
「もちろん。そもそもなぜ牛乳が有料なのか、私にはわかりません」
こちとらお前の言ってることがさっぱり理解できないが、とりあえず牛乳ビンを受け取る。ラベルなどは何も貼られてないが、ただのビンに牛乳が入っているだけの、どこにでもある牛乳ビンだ。紙製の蓋にも印刷は施されてない。こちらは満月のような円形だ。
「蓋の開け方、わかりますか?」
相変わらず必要以上に顔面を近づかせて彼は言う。
「それくらい、わかるよ。一回指で押してへこましてから外すんだろ?」
男は鼻の穴を拡大させて感嘆の表情を見せた。つくづく、彼の鼻の穴は円だった。公式を適用すれば正確な面積が求められそうなほど、隙の無い円だ。さんて、ん、い、ちよんいちごーきゅ、う……、ジョン・鈴木の低い歌声がこだまする。
「最近のお客様は蓋の開け方すらわからない方が多いのですよ。そのたびに私はがっかりしてきました。しかしあなたは素晴らしい。まさに牛乳ビンの牛乳を飲むためだけに生まれてきたような方だ。牛も喜ぶでしょう」
しかし僕は喜ばなかった。そんな褒められかたをされれば普通の人間は喜ばない。
「浮かない顔をしていらっしゃいますね。そんな時は牛乳ですよ。遠慮せずにお飲みください。もちろん、飲むときはこう――」
「腰に手をあてて?」
男の鼻の穴がさらに膨張していく。僕は錯覚する。彼の持つ二つの鼻の穴はどんどん広がっていき、やがては顔全体が鼻の穴になってしまうのではないか、と。
「そうそう、腰ですよ。さすが、わかっていらっしゃる。ええ、ええ」
宇宙は常に膨張し続けているというが、もし膨張し続けることが宇宙であることの条件ならば、彼の鼻の穴は間違いなく宇宙だった。僕も牛乳もジョン・鈴木も円周率も、いつしかすべてが彼の鼻の穴に吸い込まれて、また新しい世界を形づくる。もしかしたら僕が今こうして生きている世界も、既に誰かの鼻の穴の中にあるのかもしれない。鼻の穴の中でもジョン・鈴木は円周率の正しい求め方を歌にするのだろうか。きっと歌うに違いない。円周率は、いうなれば世界の成り立ち、その源なのだ。
「馬鹿らしい」僕は苦笑する。
「馬鹿らしくなんてありませんよ、全然」
牛乳ビンの蓋を軽く親指で押す。綺麗な円形のそれは、あっけなくぐにゃりとねじれた。